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心理学で恋愛しちゃダメですか

第1章:心理学部への入学と妄想膨らむ春

春らしい柔らかな陽射しを浴びながら、星野凌はキャンパスの門をくぐった。
大きなチャイムの音が、これから始まる大学生活をせかすように聞こえる。
教室へ向かう途中で目にしたサークルの勧誘テントや、見渡す限りの新入生のにぎわいに胸が躍る。
その一方で、彼は抱えている分厚い心理学の教科書を見つめては、自分の“特別な作戦”を確信していた。

「この単純接触効果…頻繁に会うだけで、女性との距離を縮められるんだって。
最初の印象さえ良ければ、勝算は絶対あるはずだ」
うれしそうに教科書の一文を指先でなぞりながら、凌は小さくつぶやいた。
それだけじゃない。
好意の返報性で相手の心を引き寄せる方法や、ドア・イン・ザ・フェイスで絶妙な駆け引きをするやり方も頭にぎっしり詰め込んできた。
入学式を迎えたその日から、凌の妄想はすでに未来の彼女との甘い時間にまで飛んでいる。

「動機が不純すぎない?」
背後から聞こえた声に振り返ると、幼馴染の槙村彩花があきれ顔で立っていた。
彼女も同じ大学に通うが、専攻は別の学部だ。
「だって、心理学を使いこなせばモテるって思わない?
フット・イン・ザ・ドアとかローボール・テクニックとか、知ってたら最強じゃない?」
凌は教科書をひらひらと見せながら得意気に笑う。
彩花は肩まで伸びた黒髪を一つに結い、春服のまま首から学生証だけ提げている。
少し面倒くさそうに視線をそらしながらも、一応話を聞いてくれるあたりが彼女の優しいところだ。

「心理学が万能の恋愛マニュアルだと思うのが間違いでしょ。
そもそも、ドア・イン・ザ・フェイスだの好意の返報性だのって、そう簡単に使いこなせるわけないじゃん。
読みかじっただけでうまくいくなら誰も苦労しないって」
彩花は小さく息をついて、正面から凌を見つめた。
「それでも、あんたはやるんだろうけど。
どうせ妙な実験体扱いされる女の子が出るのがオチだよ」

「うわ、手厳しい。
でも大丈夫。
俺は心理学部の底力を信じてるからね。
認知的不協和だって活用できるかもしれないし、まずはこの入学式の日から行動しないと始まらない」
凌は胸を張り、キャンパス内を見回しては新入生女子の姿に目を光らせる。
「それに、単純接触効果ってつまり、何度も会えば仲良くなれる確率が上がるってことだよな。
これから四年間、めちゃくちゃ顔合わせる機会あるし最高じゃん」

彩花は呆れつつも口元に笑みを浮かべていた。
「やっぱりいちいち理屈っぽい。
あんた、そればっかじゃ相手に見透かされて、そのうち面倒がられるよ。
気をつけな」
軽い説教じみた言葉を投げかけてから、彩花は教室の方向へ歩き出した。
「入学式の受付始まるし、あんまり遅れないようにね。
変な気持ちのまま講義受けたら、教授に見抜かれるかもよ」

「わかってるよ。
俺はちゃんと講義も受けて、テクニックを理論だけじゃなく実践に活かすつもりだし」
凌は頬をかすめた春の風に気づき、少しだけ顔をほころばせた。
せっかく心理学を学ぶなら、とことん楽しんで成果を出したいと意気込んでいるのだ。

大学のホールではすでに講堂前で人が行き交い、案内スタッフの呼びかけが響いていた。
「一年生の方はこちらで受付をお願いします」
ビラやパンフレットを受け取りながら、凌はさらに教科書のページをめくる。
「好意の返報性を実践するなら、まずは誰かにさりげなく親切にしてみるべきか。
気づかれないように少しずつ恩を与えて、相手に好意の芽を…」

一人で何やらぶつぶつ言っていると、そばを通りかかった彩花が小声で突っ込んだ。
「一歩間違えるとただの押し付けだからね。
いい加減、頭でっかちなのをやめなよ」

彼女の言葉に、凌は多少むっとした表情を浮かべるものの、すぐに表情を緩めた。
「彩花にも感謝してるんだけど、それって好意の返報性の応用にならないかな」
わざとらしく微笑みながら言うと、彼女はあきれ顔で首を振った。
「違うでしょ、そもそも幼馴染なんだから…もっと普通に接しなって。
あ、入学式始まるから行ってくる」
彩花は彼より一足先に人混みの中へ消えていく。

残された凌は、満開の桜と行き交う学生たちをちらりと眺めた。
小学校からの腐れ縁が同じ大学にいるという安心感もあるし、何より自分の計画を試す場がこれから無数に広がっている。
フット・イン・ザ・ドアでまずは軽いお誘いをして、その先で本命の誘いを切り出す方法だって試し放題だ。
ローボール・テクニックを使えば、相手に条件を後から変えるシーンが来ても断られにくい…とさっき教科書で読んだ。
考えれば考えるほど、この大学の新生活は自分にとって格好の実験フィールドになるように思える。

式典のアナウンスが始まると、凌はあわてて大ホールの入り口へと足を運んだ。
講堂内は新入生で埋め尽くされ、前方には学部ごとに椅子が並んでいる。
心理学部と書かれたプレートの席を見つけた凌は、急ぎ足でそこに座る。
無事に着席すると同時に、紺色のスーツ姿の大学職員が挨拶をはじめた。

最初のオリエンテーションでは、学部長や教授たちが「心理学の奥深さ」に言及しながら学生を歓迎している。
その言葉は耳に入ってくるものの、凌の頭の中はすでに次の行動計画でいっぱいだ。
「まずは同じ学部の女子と仲良くなるために単純接触効果を狙おう。
顔を覚えてもらう回数を増やして、第一印象での失敗は避けないと…」

小さく自分に言い聞かせるようにうなずいてから、周囲をキョロキョロと見回す。
同じ学部のクラスメイトになりそうな子や、二年生らしき先輩の姿。
見渡す限り期待は高まるばかりで、なんだか気持ちが落ち着かない。
彩花の「理論はそんなに万能じゃない」という一言が少しだけ耳に引っかかるが、彼の心はすでに希望でいっぱいだった。

壇上の教授の説明がひとしきり終わると、拍手が起こり、そのまま学生への諸注意がアナウンスされる。
スマートフォンやプリントで連絡事項を確認しているうちに、オリエンテーションはあっという間に進行した。
式が終わって席を立つ頃には、凌の目ははやくも外へ向かっている。
どんなサークルに入って人脈を作り、どんな方法でアプローチを試すか。
やりたいことや試したい心理テクニックが山ほどあるのだ。

廊下に出ると、彩花が待っていた。
「終わったの?
さっそく何か画策してそうだね」
彼女は腕組みしながらたずねる。
「そりゃあもう。
早くサークル見学行こうと思うんだ。
心理学系のサークルとか絶対あるはずでしょ?
先輩を味方につけて、単純接触効果で知り合いを増やせば…」
楽しそうに話す凌を見て、彩花はわずかに困った顔をする。

「はいはい。
とりあえず、そんな上手くいくかは知らないけど、ついていくよ。
変なトラブルには巻き込まれたくないし」
そう言いながらも、彩花の声の調子にはどこかあきれと興味が入り混じっている。
凌は心強い味方を得たようにうれしそうに笑い、教室棟の外へ歩き出した。

外へ出ると、ちらほらと舞い散る花びらが風に乗ってキャンパスを彩っている。
新入生たちがサークル一覧の看板に群がり、上級生が声を張り上げながら勧誘のビラを配っていた。
耳に入る賑わいに、自分の新しい生活が本格的に始まったことを実感する。
そして、心理学を武器にどれだけ女性たちと知り合えるか、期待と妄想がさらに膨らんでいく。

その妄想が実際にどんなドタバタを引き起こすのかは、まだ誰にも分からない。
今はただ、行動力だけが空回りする音を立てる予感を彩花の視線が暗示している。
凌はそれを知らずに、次に訪れる機会を待ち望むようにサークルの立て看板を見渡していた。

第2章:サークル勧誘と単純接触効果の大誤算

キャンパス中央に設置されたサークルブースが立ち並ぶ一角で、星野凌は足早に歩き回っていた。
心理学系のサークルを見つけるやいなや、張り紙に貼られた部員募集の文字に食いつく。
「ここだ。
絶対ここに入れば、単純接触効果で先輩とも仲良くなれるはず」
熱っぽくつぶやきながら、ブースの前に立つ女性に視線を送る。

目を引く長い黒髪を、淡い色合いのカーディガンがほんのり引き立てている。
橘真奈美と名札の端に書かれた文字を見つけると、凌は一気にテンションを上げた。
大学二年生らしい落ち着いた空気をまとい、何事にも動じなさそうな横顔がクールビューティそのものだ。
「えっと…心理学サークルの勧誘、されてますか。
自分、一年の星野凌っていいます」
いざ声をかけてみると、真奈美は少しだけ目を伏せて淡々と答えた。

「はい。
サークルに興味があるなら、説明しますけど…」
その声音には、愛想らしいものがほとんど感じられない。
それでも凌は、「第一印象が大事」という学んだばかりの心理学の常識を何とか活かそうと、わざとらしく明るい笑顔を作る。
「めちゃくちゃ興味あります。
心理学の知識を実践する場が欲しくて、ぜひ先輩たちのお話も聞いてみたいんです」

うまくいったと思いながら話す凌に対し、真奈美は微妙に言葉を濁すように手元のパンフレットを見せた。
「活動内容はこの通り。
講義のサポートや研究会が中心ですね」
すると凌は勢いづいて、持ち前の行動力を発揮しようと手を伸ばす。
「あ、僕もいろんな心理テクニック知ってるんですよ。
単純接触効果に好意の返報性、あとフット・イン・ザ・ドアやローボールテクニックなんかも…」
笑みを浮かべて自慢げに語っていると、真奈美の表情が曇ったように見えた。

「そうなんですね。
でも、あまり“テクニック”ばかり披露されると、ちょっと引いちゃう人もいるかもしれませんよ」
静かに言い放った真奈美の声は、冷たいわけではないがどうにも距離を感じる。
「ごめんなさい。
次の新入生にも説明しなきゃいけないので」
そう言って手のパンフレットを差し出すと、彼女は早々にブースの奥へ戻っていった。

振られたわけではない。
しかし第一印象で変なやつだと思われてしまった手応えが、凌の胸に重くのしかかる。
「やっちまった…」
短くつぶやきながら振り返ると、いつの間にか後ろにいた槙村彩花が息をついていた。
「だから言ったでしょ。
最初の印象が大事なんだから、いきなりテクニックうんぬん言うと警戒されるよ」
彩花は呆れまじりの視線を凌に注ぎ、薄く笑う。

「でも、単純接触効果って何度も会えば好感度が高まるんだろ。
だったら今後サークルに通い詰めれば、真奈美先輩とも距離縮まるはず」
凌は何とかポジティブに考えようとして、ブース近くの椅子を見つけると腰かけた。
「あんたはいつもそうやって、確証バイアスばかり働かせるよね。
“うまくいく”って思い込みたくて、都合のいい情報だけ拾ってるんじゃないの」
彩花が指摘すると、凌はスマホを取り出しながら苦笑いを浮かべる。

「確証バイアス、か。
まあ、確かに理論を習ったばかりだから舞い上がってるかも。
でも、次はもうちょっと自然に近づくって決めたよ。
あのクールビューティ先輩がどうやって笑うのか、見てみたいしさ」
そう言ってスマホのメモ画面を開き、次の作戦プランを書きつける。
彩花はちらりとその画面をのぞいて眉をひそめた。

「また計画?
“ミラーリングで相手の仕草をまねる”とか“観察学習を逆手に取る”とか、いろいろ書いてるけどさ…そこまで理詰めで動くと引かれるって。
第一印象をやり直すには時間もかかるし、単純接触効果って元々は好意的な雰囲気を前提にしてる場合が多いよ」
彩花は意外と心理学の知識に明るい。
凌が高校時代にハマった心理本を読むたびに、彼女も一緒にページをめくっていたからだ。

「そんなの、これから巻き返せばいいんだって。
とにかく先輩と会う回数を増やして、少しずつでも印象を上書きしてもらうしかない」
凌はスマホをしまうと立ち上がって、もう一度サークルブースの方へ視線を投げた。
「あの先輩、なんか冷たいと思ったけど…いや、きっとクールなだけで根は優しいんだよ。
単純接触効果で俺を見直してくれるはず」

呆れつつも少し笑った彩花は、自分のスマホを開いて操作しはじめる。
「じゃあ、そのうち返事ちょうだいよ。
LINE送ったから」
画面には彩花からの短いメッセージが届いている。
“もうちょっと普通に行きなよ。
第一印象が肝心。
それを忘れないで”

「わざわざLINEで釘刺さなくてもいいじゃん」
凌は苦笑いしながらスマホをしまい、再び真奈美の姿を探そうと視線を巡らせた。
しかし、いつの間にかサークルブースには他の新入生が集まり、彼女の姿は見当たらない。
目につくのは先輩部員らしき数名だけで、どこか規律正しそうな雰囲気が流れている。

「会えないならしょうがないな。
また明日来てみるか。
単純接触効果は継続が大事だからな」
そうつぶやいて歩き始める凌に、彩花は諦め半分の表情を向けた。
「ま、頑張りなよ。
でもしつこくしすぎたら、嫌悪感が倍増することもあるから。
“接触”の量だけが答えじゃないって理解できてる?」

軽く首をかしげて問いかける彼女に、凌は言葉を濁しながら小さく笑う。
「う、うん…気をつける。
やり方考えながら、うまくタイミング測るつもり」
その足取りにはまだ空回りの予感が残っているが、今のところは気づいていないらしい。
サークル勧誘の喧騒のなか、彼は単純接触効果による巻き返しを信じて意気込んでいる。
果たしてその道のりが容易なものかどうかは、自分でもまだ分からない。

夕方になり、ブースがたたまれる頃に彩花は軽く伸びをした。
「そろそろ帰ろう。
あんたは下調べに忙しそうだけど、くれぐれも相手の気持ちを無視しないようにね」
淡々とした助言を最後に、彼女は鞄を肩にかけて歩き出す。
凌は少し物足りなさを感じながらも、またあの先輩に会うチャンスを想像している。
「たくさん話して、見直してもらうぞ」
小さく決意を言い聞かせてから、夕暮れの校舎を振り返り、帰り道へと足を進めた。

第3章:バイト先の同僚にアプローチ―好意の返報性狙い

木造調のカウンターと、ほんのり甘いコーヒーの香りが漂うカフェで、星野凌は新人スタッフとして働き始めた。
大学の帰り道にも通いやすい場所にあり、スタッフは皆若い学生中心。
その中でも一際明るい笑顔を振りまく木村結衣に、凌は早くも目を奪われていた。

「星野くん、ホールは慣れた?
今日忙しいから、ドリンクの補充手伝ってくれる?」
結衣が笑顔で話しかけると、凌は反射的に「もちろん」と返事する。
大きな声での接客が苦手な自分とは正反対の、誰とでも楽しくやりとりする彼女の姿が眩しい。

凌はさっそく好意の返報性を狙う作戦をひらめいた。
「まずは彼女に親切にして好印象を与えれば、いつか僕に特別な思いを抱いてくれるかも」と、心の中で都合よく計算をする。
レジが落ち着いたタイミングを見計らい、コンビニで買った新作スイーツを差し入れに持ってきた。
「いつも大変そうだから、よかったら食べて。
甘いの好きって聞いたし」
そう言いながら包装をそっと手渡すと、結衣は少し目を丸くする。

「え、うれしい。
ありがと~!
甘いもの大好きだから助かる」
その時の彼女の笑顔が、凌の心を一気に弾ませる。
さっそく好意の返報性の第一段階に成功したと、鼻息を荒くする。

しかし翌日、結衣は気遣いのつもりなのか、小さなお菓子を持ってきた。
「昨日のお礼だよ。
差し入れありがとね」
軽いノリでお返しを受け取った凌だったが、心の中では少し違和感を覚える。
「え、僕はただの好意で渡しただけなのに。
これじゃあ、返礼品をもらうためにやってるみたいに見えないかな」

それでも「好意の返報性」は維持すべきだと考えた凌は、新しい作戦を立てた。
何かと細かい仕事をすすんで買って出ることで、結衣に好意的な印象を与えようとする。
例えばドリンクカウンターの清掃や、閉店後のレジ締め作業も、率先して手伝ってみせる。
「うわ、本当に助かる!
ありがとう、星野くん」
結衣は素直に礼を言うものの、そのたびに「今度お礼するね」と、決まり文句のような言葉を添えてくる。

「好意の返報性を働かせたいはずなのに、なんだか彼女に気を遣わせてるだけじゃないか?」
凌はモヤモヤしながらエプロンを外し、休憩室へ向かった。
そこでスマホを見ると、幼馴染の槙村彩花からLINEが入っている。
“バイトどう?
変なテクニックばっかり使ってないといいけど”

小さく苦笑いしながら返事を打ち込む。
“まだ大丈夫。
だけど、ちょっと違う方向に進んでる気もする”
彩花はすぐに既読をつけて返信を寄こした。
“あんた、好意は対等にやりとりしないと変な負担になっちゃうよ。
一方的に与えるだけって、本当に相手のこと考えてる?”

「対等…か」
口に出してつぶやきながら、凌は先ほど結衣が見せた少しばかり戸惑ったような笑顔を思い出す。
自分が意図したわけではないが、結衣が“お礼をしなきゃいけない”と負担に思っているとしたら、この関係は望んでいるものとは違う。
それでも「好かれたい」「好意の返報性を発動させたい」という下心が優先してしまうのが、今の凌の弱いところだ。

翌日もバイト先に出ると、結衣はカウンター越しに手を振ってくれる。
いつも通りに元気で明るい声が響くが、その奥にある微妙な距離感を凌は少し気にしていた。
ホールに立ちながらドリンクを運んでいると、結衣がふとこちらに近づいて話しかける。
「星野くんって、これからもずっとバイト続けるの?
もっと楽なバイト選びそうなのにさ」

「うん。
ここ居心地いいし、結衣さん…あ、いや、先輩もいるから」
言葉を詰まらせながらも、本音を言いかけてごまかす凌。
そんな様子を見た結衣は、くすっと笑ってから目を伏せるように瞬きをした。
「そっか、私は人と話すの好きだから続けてるけど…星野くんも、もっと気楽にしていいんだよ」
柔らかい口調に、凌は胸の奥が少しうずくような感触を覚える。

休憩時間に入ると、凌は再び彩花にメッセージを送ってみる。
“なんか彼女に負担をかけてる気がするんだけど、ちゃんと伝わってないのかな”
すると彩花からはすぐ返事が返ってくる。
“自分がやりたいからやってるのか、相手のためにやってるのか、ちゃんと考えたら?
テクニック頼りにすると、一方通行になるよ”

凌は画面を閉じてから、改めて結衣の様子を思い返した。
彼女はいつも感謝の言葉をくれるけど、それを返そうとする度合いのほうが大きくなっているような気もする。
それはもしかすると、自分の接し方に問題があるのかもしれない。
「対等でいたいって気持ち、わかってあげなきゃな」
小さくつぶやいた瞬間、結衣が休憩室に入ってきた。

「おつかれさま。
今日すごく忙しかったね。
あ、そうだ…今度のシフト終わったあと、みんなでご飯行こうって計画してるんだけど来る?」
彼女は髪を結い直しながら、ふわりとした笑顔で誘ってくる。
凌は一瞬「個人的に二人で…」と言いかけるが、それはまだ早いと思い直し、素直にうなずいた。
「ぜひ行きます。
こういうの、あんまり経験ないから嬉しいです」

その返事を聞いて、結衣は何かほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった。
星野くん、いつも気を使ってくれてるから、こっちも一緒に楽しめたらいいなって思ってたんだ」
言われてみれば、結衣の声にはほんのり安堵が混じっている。
凌はその微妙な変化を初めてはっきり感じとり、少しだけ胸が熱くなった。

一方で、今まで自分がやってきた“作戦”が、対等な関係を遠ざけていたのではないかという疑問が頭をよぎる。
「好意の返報性って、ただのテクニックとして使うんじゃなくて、ちゃんと相手と同じ目線で与え合うことが大切なのかも」
ささやかながら、そんな気づきがふと生まれていた。

バイト終わり、カフェのドアを出ると涼しい夜風が頬を撫でる。
いつもは見慣れない街の灯りが、少しだけ綺麗に見えるような気がした。
凌はスマホを取り出して彩花に短いメッセージを送る。
“ありがとう。
もうちょい肩の力を抜いてみるよ。
そっちこそ、ちゃんとご飯食べてる?”

返事はまだ来ないが、彼女なら呆れ半分で応援してくれているだろう。
お気に入りのヘッドホンを首にかけ、明日のシフトも頑張ろうと心に決める。
今はまだ答えを出せないけれど、好意の返報性をどう扱うべきか、ようやく自分の中で問いを立てはじめたところだ。
このまま少しずつでも結衣に近づけたらいい。
そう願いながら、凌は夜の街を歩き出した。

第4章:合コン初参戦とドア・イン・ザ・フェイスの誤用

夜の街がほんのりとライトアップされた居酒屋の個室で、星野凌は少し緊張した表情を浮かべて座っていた。
大学の友人から急に誘われた合コンで、まさか自分がデビューすることになるとは思っていなかった。
向かい側には他大学の女子数名が並んでおり、その中で一際落ち着いた雰囲気を醸し出すのが白鳥凛という名の女性だった。

「こんにちは。
白鳥凛です。
経済学部の一年生です」
柔らかい声で自己紹介をする凛の姿に、凌は一瞬で興味をかき立てられる。
ややミステリアスな佇まいと、冷静そうな視線。
まるで周囲を一歩引いたところから見ているような落ち着きがある。

凌はさっそく頭の中で、心理学で学んだ「ドア・イン・ザ・フェイス」の作戦を組み立て始めた。
大きな要求を最初に突きつけ、断らせてから小さな要求を通すことで、交渉を有利に進める手法だ。
たとえば合コンが終わったあと、一緒にもう一軒行きませんかと大きく誘い、それが断られたら、代わりにLINE交換だけしてもらうという流れを想定していた。
それはまさに座学のとおりの理屈だと、凌は鼻息を荒くする。

合コンの乾杯が終わると、各テーブルで自然と会話が始まる。
大学の授業や趣味の話が飛び交い、凌は隣に座っている友人と軽く盛り上がりながらも、心の中ではタイミングを見計らっていた。
凛に声をかける機会を得たとき、いかにドア・イン・ザ・フェイスを使うかが勝負だと考えている。

やがてある程度打ち解けたタイミングで、凌は凛の方を向いた。
「凛さんって、あんまりお酒飲まない感じかな。
ずいぶん落ち着いてるけど」
冗談交じりに言うと、凛は少し口元をほころばせてから答えた。
「そうですね。
あまり強くないので、一気飲みみたいなのは苦手です。
それよりもゆっくり話す方が好きかも」

その言葉に、凌は少しだけ胸を弾ませる。
飲み会という場でも落ち着いて話をしたい、というタイプなら大きな要求を断るだけの冷静さは十分ありそうだ。
それなら、こちらの交渉プランを形にする余地もあるはずだと判断する。

しばらくして居酒屋のコース料理が終盤に差し掛かるころ、凌は意を決して凛に話を振った。
「ところで、もし今夜このあとみんなでカラオケとか二軒目行くってなったら、付き合ってもらえるかな?」
あえて大げさな言い回しで、大きな要求として提示する。
すると凛は少し首をかしげるように目を細めた。
「ごめんなさい。
私、明日朝早いんで、二軒目とかはちょっと厳しいです」

想定どおりの「断り」が返ってきて、凌は心の中でガッツポーズをする。
ここで一旦引いてから、次の小さな要求であるLINE交換や連絡先の交換を切り出すのがドア・イン・ザ・フェイスの基本的な流れだ。
「そっか。
じゃあ仕方ないね。
代わりにLINEだけでも交換してくれたらうれしいけど…」
言い終わる前に、凛が薄く笑みを浮かべる。

「すごくわかりやすい交渉ですね。
星野さんって心理学部だったりします?」
淡々と放たれたその質問に、凌は思わず言葉を詰まらせた。
「え、いや、その…なんでわかったの?」
凛は少しだけ肩をすくめるようにして答える。
「うちの大学でも“最初に大きな頼みごとをしてから、小さなお願いを通す”って話題が出てたので。
あれ、確かドア・イン・ザ・フェイスっていう有名なテクニックじゃなかったかな」

普段ならガッツリ理論を語りたい凌だが、この場ではむしろ彼女の察しの良さにどう返したものか困り果てる。
「いや、別に…そこまで考えてたわけじゃないんだけど、あはは」
乾いた笑いを交えながら否定しようとするが、目の前の凛はどこか納得いかないような表情をしている。
「そうなんだ。
まぁ、私にカラオケを断らせてから、LINEを交換させようって狙いじゃないならいいんだけど」
言い方そのものは穏やかだが、視線が真意を探ってくるように鋭い。

「うっ…」
凌が返事に詰まると、凛は軽く息をついてから口調を和らげた。
「別に怒ってるわけじゃないよ。
ただ、ちょっと作戦めいたものを感じたから。
もし本当に話してみたいなら、普通に連絡先を交換しようって言ってくれるだけでいいし」

追い詰められている気がして、凌は焦りながらテーブル上のグラスに手を伸ばす。
キンキンに冷えたドリンクがのどを通っていくが、それでも状況は変わらない。
このまま素直に作戦を白状したら、確実に気まずい空気になりそうだと思いながらも、凛の態度にはほんの少し好意的な部分も感じられる。
もしかしたらまだ挽回の余地があるかもしれないという期待が、凌の中に微かに残っていた。

「ごめん。
正直、ちょっとだけ心理学のテクニックを試してみたかったんだ。
でも、凛さんとちゃんと話してみたいのは本当だよ」
意を決してそう告げると、凛はようやく少し納得したように頷く。
「そっか。
じゃあもう一度、普通に『連絡先を交換しませんか』って言ってみて」
真顔でそう促されて、凌は心臓の鼓動が妙に早くなるのを感じながら、じっと凛を見つめる。

「その…よければ、今度ちゃんと二人で話せたらと思うんだけど。
連絡先、教えてもらっていい?」
ぎこちないながらも、それが精一杯の素直な言葉だった。
すると凛はゆるやかに頷いてから、スマホを取り出す。
「うん、いいよ。
私も心理学部の人と話してみたいことがいろいろあるし」

そっと画面を見つめながら、凌はお互いのQRコードをスキャンし合う。
周りはまだ合コンの盛り上がった空気に包まれているが、二人の間には何か落ち着いた雰囲気が漂い始めていた。
しかし凛がふとこちらを見上げると、意味ありげな口調で言う。
「でも一つだけ言っておくと、あからさまな心理戦は私には通用しないと思う。
下手に駆け引きするより、素直に話したほうがいろいろ楽かもね」

それを聞いて、凌は苦笑いしながら箸を握り直す。
ドア・イン・ザ・フェイスを綺麗に使ったつもりが、すぐに見破られてしまったわけで、作戦そのものは失敗と言えば失敗だ。
ただ、凛と連絡先を交換できたという事実は、完全な負けでもないと思いたい。
合コンが終わったあと、凌は店を出る直前に彼女の横顔をちらりと見やった。
ミステリアスな雰囲気に加えて、人の内面を鋭く見抜く洞察力を持つ相手なら、一筋縄ではいかないだろう。
それでもまるでささやかな勝利のように、LINEの新しいトーク画面がスマホに刻まれている。

店を後にすると、夜風がひやりとした心地よさを運んできた。
凌は胸ポケットのスマホを触りながら、これからのやり取りをどう進めようかと考える。
ドア・イン・ザ・フェイスの華麗な成功は逃したが、思わぬ方向から新しい一歩を踏み出したような気がした。

第5章:ナンパ連敗とフット・イン・ザ・ドア / ローボールの挫折

週末の夕方、駅前の広場で星野凌は人通りを見渡しながら深呼吸をした。
誰かに声をかけようと決めてから、もう十分以上が経過している。
「とにかく小さなお願いから始めて、フット・イン・ザ・ドアで次のステップにつなげればいい。
ローボールテクニックを応用すれば、後からデートの条件を追加しても断られにくいはずだ」
そう自分を奮い立たせながら、凌はバッグの中の教科書をちらりと確かめる。

最初のターゲットは、ふわりとしたスカートを身にまとった女性だった。
「すみません。
このへんでおいしいカフェって知りませんか?」
自然な口調を装い、小さな頼みごとをするのがフット・イン・ザ・ドアの入り口だ。
相手は少し考え込んでから、近くにあるチェーンカフェの場所を教えてくれる。
「ありがとうございます。
そういえば、もしよかったら一緒に行きませんか?」
ここで一気にハードルを上げる。
しかし女性は戸惑った表情を浮かべたまま、曖昧な笑みで断りの言葉を濁す。

「そう、ですよね。
急にすみませんでした」
頭を下げた凌に、女性は気まずそうな表情を残して足早に去っていった。
「最初はうまくいかないか…」
そう呟きながらも、まだ諦めるつもりはない。
理論どおりにやれば、いつかは成功するはずだと信じている。

その後も、同じような形で何人かに声をかけては断られた。
今度はローボールテクニックを使ってみようと思い、一見負担の少ない誘いをチラつかせて、あとで条件を追加する方法を狙う。
例えば「すみません、駅までの道を教えてもらえませんか」と声をかけ、自然に会話を続けたあとで「実は、ちょっとだけ話したいことがあるんですけど…」と切り出す。
一度YESと言わせてしまえば、そのまま連絡先交換くらいは簡単にいけるはずだと期待している。

だが、この作戦もことごとく空回りに終わった。
駅までの道を教えてくれた女性に「良かったらLINE交換して、今度もう少し話しませんか」と言った瞬間に「ちょっとごめんなさい」と笑顔で拒否される。
あるいは「うーん、知らない人と交換するのは抵抗があって…」と丁重に断られるパターンもあった。
気づけば何人に声をかけたのかさえ覚えていないほどで、凌は疲れたように近くのベンチへと腰を下ろす。

「理論どおりにやってるはずなのにな。
なんでみんな警戒するんだろう」
小声でぼやきながらスマホを開くと、腐れ縁の槙村彩花からのメッセージが届いている。
“今、駅前にいるでしょ?
なんか友達が怪しい人に声かけられたって言ってるんだけど…まさかあんたじゃないよね?”

思わず「うぐっ」と声を漏らして、凌は仕方なく彩花に電話をかけた。
「もしかして、俺のことかも。
いや、別に怪しく声かけてるつもりはないんだけど…」
受話器越しの彩花は呆れたようにため息をつく。
「あんた、フット・イン・ザ・ドアとローボールテクニック使ってるんでしょ。
相手からすれば、後出しで要求増やされるのって普通に嫌なんじゃない?」

「いや、最初は小さなお願いから始める方が受け入れられやすいし、後からお願いを追加すれば承諾率が上がるって…教科書に書いてあるんだよ」
むきになって言い返す凌に、彩花は携帯の向こうで首を振っているかのような静かな声音を返す。
「理論が間違ってるわけじゃないけど、それは人間関係の土台がないときにいきなりやってもうまく機能しないんだって。
特にナンパされる女性は警戒心も強いし、ちょっとでも『裏があるのかな』って思ったら離れていくよ」

凌は言葉を失い、ベンチの背もたれにもたれかかる。
「でも、ちゃんと下心は隠してるつもり…ていうのも変だけどさ、自然に話しかけてるよ?」
すると彩花は、呆れを通り越したような声色で言い切った。
「下心を隠してる“つもり”でも、相手は感じ取るんだよ。
心理学は相手をだます道具じゃないんだから、もっと対等に接する姿勢が必要なんじゃない?」

その言葉に、凌はどう返していいか分からなくなる。
フット・イン・ザ・ドアやローボールテクニックは確かに有効な交渉術ではあるが、見ず知らずの相手に使えばうまくいく保証はないし、警戒されても仕方がない。
「わかった。
今日はもうやめとく。
また今度考えるよ」
彩花が「そうしなよ」とあっさり電話を切ると、凌はスマホをポケットにしまってしばらく人通りをぼんやり眺めた。

そこからさらに数十分、未練がましく立ち上がって女性に声をかけようとするが、心のどこかで「どうせまた断られるのではないか」と頭をよぎってしまう。
結果、何もせずに帰路につくことにした。
夜の街は相変わらず賑やかだが、凌の足取りは重い。
「理論どおりにやってるのに失敗ばかりじゃ、やっぱり何かズレてるんだろうな」
そう自嘲気味につぶやくと、スマホが震える。
彩花からの追加メッセージだ。

“テクニックよりも相手を知ろうとする気持ちが先じゃない?
たとえフット・イン・ザ・ドアでもローボールでも、無理やり接点作ろうとしたら不信感が先に出てくるよ”

その一文を読みながら、凌は苦い思いと同時に、少しだけ納得する部分もあった。
対等に接するという意識を持たずに、自分の都合を押しつけるようなやり方では、誰も応じてはくれないのかもしれない。
ただ、今の彼にはその真意を完全に理解するだけの余裕がまだ足りないようだった。
とりあえず、今日は大人しくアパートに戻ろうと考えている。

駅前の大通りを曲がり、淡いオレンジ色の街灯を辿りながら、凌はバッグの中に押し込んだ教科書をちらりと振り返る。
「フット・イン・ザ・ドアもローボールも、ただ理論を知ってるだけじゃダメなのか…」
慣れた手つきで扉を開き、静かな部屋へと足を踏み入れる。
押し寄せる疲労感と、使えなかったテクニックへの苛立ちがない交ぜになったまま、凌は床にごろんと寝ころんだ。

スマホの画面を見ながら、どうにか自分を正当化しようとする気持ちと、彩花の指摘が頭の中でせめぎ合っている。
「まだ試してない方法もあるんだけど…果たして、また同じ轍を踏むだけなのか?」
小さな声で独り言をつぶやき、天井を見上げる。
理論を実践する難しさを、彼は少しずつ思い知らされているようだった。

第6章:認知的不協和との向き合い―自分の気持ちを見つめる

図書館の木製デスクに座ったまま、星野凌は目の前の心理学の教科書をぼんやりとめくっていた。
“認知的不協和”という見出しが目に飛び込み、自然と視線がそこに留まる。
「自分の行動と信念が矛盾するとき、人は不快感を覚えて、無理にでも辻褄を合わせようとする…か」
声に出して読み上げた瞬間、胸の内にチクリとした痛みを感じた。

最近の行動を振り返ってみると、テクニックに頼ってばかりだったという事実が浮き彫りになる。
単純接触効果にしろ、好意の返報性にしろ、フット・イン・ザ・ドアにしろ、頭の中で描いていた理想と現実の結果はずいぶん違う。
なぜ恋愛したいのかと問われれば、「彼女が欲しい」以上の理由を深く考えたことがない。
そこに気付いてしまうと、今までの言動がどこか空回りしていた理由も分かる気がした。

その日は授業がなく、図書館も空いていたため、凌は周りをあまり気にせず考え事を続ける。
教科書に書かれた理論をツールとして使っているだけで、本来なら“相手を理解するため”に学ぶはずの心理学を、自分の都合のいいように曲げていないか。
本当に相手と向き合いたいのなら、まずは自分の気持ちに正直になるべきなのかもしれない。
だが、今まで必死で積み上げてきた「テクニックを使えればモテるはず」という思い込みを否定するのは、なかなか勇気がいる。

スマホが震え、画面には槙村彩花からのメッセージが表示される。
“今どこ?
何か考えてるなら、話くらい聞いてあげるけど”
素っ気ない文面ながらも、心配してくれているのが伝わる。
凌は少し迷ったが「図書館にいる」とだけ返事をし、机に置いてある教科書を見つめた。
認知的不協和という言葉が、今の自分をどう変えてくれるのか分からないまま、なんとも言えない居心地の悪さを噛みしめる。

やがて足音が近づき、彩花の姿が視界に入った。
「なんだか悩んでる顔してるね。
テクニック使ってもうまくいかないから、ちょっと落ち込んでるってとこ?」
彼女はさりげなく凌の向かいに腰を下ろし、図書館の静けさを気遣うように声を落とす。
「落ち込んでるっていうか…自分がやってること、なんか違う気がするんだよな。
この前のナンパも、合コンも、全部中途半端に終わったし」

彩花は小さくうなずきながら、机の上に置かれた教科書のページをちらりと見る。
「認知的不協和だよね。
自分の思い描く理想とかプライドと、実際の行動が食い違ってる状態。
そのままだと不快だから、何かで誤魔化して楽になろうとするけど…本質的な解決にはならないよね」

言いながら、彩花は携帯を取り出して画面を開く。
「そういえば、あんたから相談LINEが来たとき、ちょっと気になったことがあるんだけど…“なんで恋愛したいのか分からなくなってきた”って言ってたよね?
本音ではどう思ってるの?」

凌は一瞬言葉に詰まり、視線をそらすように机の隅を見つめる。
「なんだろう。
孤独は嫌だし、彼女がいたら楽しいって単純に思ってた。
でも、いざ心理テクニックでアプローチすると、なんか自分が自分じゃなくなる気がしてさ」

彩花はその言葉を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いたように息をつく。
「じゃあ、そこに認知的不協和があるんだろうね。
“純粋に相手と仲良くなりたい”気持ちと、“テクニックで女性を落とそう”としてる姿勢が矛盾しちゃってる」

図書館の天井から差し込む穏やかな光が、微妙な沈黙を照らし出す。
凌は開きっぱなしの教科書を閉じ、自分の胸に手を当てるような仕草をしてみせる。
「そんなに難しく考えなくてもいいんだろうけどさ。
でも、やっぱりもやもやするんだよ。
テクニックを学んできたのに、使えば使うほど失敗するし、自分が何をしたいのか分からなくなるし」

彩花は苦笑いしながら、鞄のポケットから飴玉を取り出して凌に差し出す。
「頭使いすぎて糖分足りてないんじゃない?
ま、こんなの気休めだけど」
凌は飴を受け取り、包みを剥きながら自嘲気味に笑う。
「見透かされてる感じ、悔しいけどありがと」

しばらくして、彩花は小さく咳払いをする。
「いちいち心理テクニックに頼るより、自分が感じた“好きだ”とか“もっと知りたい”って気持ちを大事にしてみたら?
まずは相手を一人の人間として見ないと、いくらテクニックあっても無意味じゃない?」

凌は飴を口に含んだまま、はっきりしない声で応える。
「まぁ、そうだよな。
今までだって彩花から何度も言われてたけど、なんか聞き流してた気がする」

彩花はあえて皮肉っぽい笑みを浮かべてみせる。
「フット・イン・ザ・ドアもローボールも、ドア・イン・ザ・フェイスも、そりゃあ正しく使えば効果あるんだろうけどさ。
そもそも人を“落とす”とか“誘導する”って考え方自体が、相手を見てない証拠じゃない?」

その言葉が、まるで核心を突くように凌の胸を突き刺す。
だけど、不思議と悪い気はしない。
背中を押されているような、どこか暖かい響きがあるのだ。
「たぶん俺、自分の理想に人を合わせようとしてたんだな。
目の前の相手が何考えてるかより、“どうすれば落とせるか”ばっかり見てたかも」

彩花はゆるやかにうなずくと、座っていた椅子を引いて立ち上がる。
「じゃ、もうちょっとだけ頑張って考えてみなよ。
自分の気持ちを誤魔化さないで、本当に相手のことを知りたいって思うのかどうか。
それが見えれば、認知的不協和も少しは軽くなるんじゃない?」

凌は彼女の言葉を反芻するように一度うなずき、教科書をそっとバッグに戻す。
「わかった。
ありがとう…彩花」
まるで言葉を選ぶように、控えめな声で礼を言う。
彩花は照れ隠しのように視線をそらしながら、軽く手を振って図書館を後にする。

そこに残された凌は、静まり返った机の上に手をかざし、ふうっと息を吐く。
認知的不協和という不快感を、どう解消するかは自分次第だと頭では分かっている。
ただ、テクニックに頼らないで人と向き合うというのは、今までにない挑戦でもある。
思い込みをひとつずつ崩すのは怖いが、どこか肩の力が抜けるような、不思議な解放感も少しだけ宿っていた。

席を立ったあと、窓際の書棚から一冊の本を手に取ってみる。
“恋愛心理学―本当の相手を知るために”と表紙に書かれたその本を眺めながら、凌は微かに笑みをこぼした。
そこに書かれているのは、テクニックというより、いろんな人の心に寄り添う術かもしれない。
やり方を変えるというより、考え方を見直す第一歩になるかもしれないと思いながら、本を抱えて貸出カウンターへ向かった。

第7章:素直になる勇気―幼馴染が教えてくれたこと

小さな雨が降り始めた学内の中庭を見下ろすカフェテラスで、星野凌はスローペースに足を運んでいた。
ごく普通の日常なのに、今日だけはなぜか胸がざわつく。
認知的不協和について考えはじめてから、自分の感情と行動の噛み合わなさがよりはっきり見えるようになり、どうにも落ち着かないのだ。

「そろそろ来るはずなんだけど…」
小さくつぶやいたとき、カフェの入り口から槙村彩花が姿を見せる。
相変わらず黒髪をひとつに結び、淡いピンクのブラウスの上にカーディガンを羽織っている。
少し照れ臭そうに目をそらす凌を見つけ、彼女は「あれ?」という表情を浮かべて席についた。

「珍しく落ち着きないね。
今度は何を企んでるわけ?」
皮肉っぽい口調だが、どこか柔らかい眼差しが混じっている。
凌は視線をテーブルに落としながら深呼吸した。

「企んでるわけじゃないけど…ちょっと話があって。
いいかな?」
そう言いつつ、いつものように心理テクニックを使おうとは考えない。
むしろ、どうやったら自分の言葉で正直に気持ちを伝えられるか、それだけを考えている。

彩花はコーヒーを一口含み、静かに頷く。
「話って、あんたが真面目な顔するなんて珍しいね。
どうしたの?」

この瞬間、ドア・イン・ザ・フェイスもローボールテクニックも頭をよぎったが、全部脇に追いやる。
自分の行動を本心に沿わせるために、あえて単刀直入に切り出す勇気が必要だ。

「今まで散々テクニックに頼って、色んな女の子にアプローチしたけどさ…結局、うまくいかなかった。
それで認知的不協和がどうとか、理論的には説明できるんだけど、もう理屈ばかりじゃダメだと思うんだ」
心臓がバクバクし、鼓動が耳に響く。
彩花はそんな凌をじっと見つめ、いつになく真剣な表情を浮かべる。

「それで、本当は何が言いたいわけ?」

素直になる勇気とは、こういうことなのかもしれない。
フット・イン・ザ・ドアで小さなステップから入ろうと思ったが、今ここで一気に踏み込まなければ何も変わらない。
好意の返報性を期待するのではなく、まずは自分から本音をさらけ出す。

「彩花…俺、ずっと彩花のことを“幼馴染”だと思ってたんだ。
でも最近やっと分かった。
おまえを一番気にしてたの、実は俺自身なんだって」
意識して口にすると同時に、頭の中が一瞬真っ白になる。
彩花は一瞬驚いたように瞳を見開き、カフェのざわめきが一瞬遠のいたように感じられた。

「え、ちょっと…どういうこと?」
彩花が問い返す声はわずかに震えている。
凌はあらためて彩花の顔をしっかり見る。

「テクニックを使う俺を、おまえはずっと呆れたり、叱ったり、諭したりしてくれた。
でも、よく考えたらそれって俺に期待してくれてるからじゃないかって思ったんだ。
おまえに変なところ見られたくないって、無意識に思ってた。
結局、誰よりもおまえに好かれたかったんだって気がついてさ」

彩花は少し息を詰めたように瞬きをする。
おせっかい気質の彼女が、いつも凌を放っておけないのは“幼馴染だから”という言葉では片づかない感情があったのかもしれない。
ハロー効果や単純接触効果を期待するより、もっと根本的に大切なものがあると、凌はようやく理解した。

「それって…つまり、私を女として見てるってこと?」
彩花が視線を落としながらそう尋ねると、凌は改めて決意するように頷く。
「うん。
おまえと一緒にいるときが一番自然体でいられるし、逆に一番カッコつけたくなるんだ。
心理テクニックなんてどうでもいいくらい、本音で相手になりたいと思える相手って、彩花以外にいない」

一気に言葉を吐き出すと、心の中にあった不安と認知的不協和が薄れていくのを感じる。
テーブルの上で手を組んだまま、彩花は少し震えているようにも見える。
「なんでそんな大事なこと、今まで言わなかったのよ。
私だって、あんたの暴走を見てるとハラハラして…もうちょっと普通にしてほしいってずっと思ってた」

曖昧な静寂をかき消すように、外の小雨が少し強まる。
だが、不思議とカフェの中には暖かい空気が漂っている。
凌は彩花が返事に困っているのを見ながら、覚悟を決めたように続ける。

「ここでドア・イン・ザ・フェイスとかやれば笑えるかもしれないけど、もういいよな。
俺、自分の言葉で伝えたい。
彩花に好かれたい。
これからはテクニックじゃなくて、本気でぶつかってもいいか?」

しばらく黙っていた彩花は、ふっと口元を緩める。
「いいんじゃない?
正直、ちょっと照れるけどさ…あんたなら、まぁ許してあげてもいいかな」
どこか照れ隠しのように言い放った言葉だが、頬が赤く染まっているのが分かる。

凌は思わず笑みをこぼしながら、カップに残っていたコーヒーを一口飲む。
今までの失敗も、その一つひとつが遠回りしたからこそ、ここに辿り着けたのだろう。
ナンパ連敗や合コンでの作戦失敗、サークル先輩とのすれ違い――全部が、素直になるためのきっかけだったのかもしれない。

「ところで、今までは“落とす”とか言ってたけど、もうそういう言い方もしないほうがいいよな。
ただ…一緒に楽しい時間を作りたいだけなんだ。
それって、相手のことをもっと知りたいっていうシンプルな欲求だから」

彩花は軽くため息をつくように笑い、髪を耳にかける。
「ほんと、手間のかかる幼馴染ね。
でも、今のあんたは少しだけカッコよく見えるかも」

その瞬間、外の雨がいっそう強くなる。
窓ガラスを叩く音が心地よいBGMのように響き、テーブルの二人を包み込むように優しく広がっていく。
二人が何気なく見つめ合う様子に、周囲の学生たちは少しだけ興味を惹かれているようだが、そんなことは気にならない。

凌は無意識に彩花の手元に視線を落とし、小さく笑う。
「ありがとな。
結局、最後に大事なのは“素の自分”を見せることだったんだな。
心理学に頼るより、自分の気持ちに素直になる勇気が大切だったってわけか」

彩花は小声で「そうかもね」と答え、傘を持たずに来てしまったことを思い出したように窓の外を見る。
「そういや、雨止みそうにないね。
一緒に帰る?」
その言葉に、凌は心が弾むのを抑えきれない。

「うん。
確かにそろそろ行こうか。
雨宿り代わりに、ちょっと寄り道してもいいかな?」
彩花は呆れたように笑みを浮かべながら、「まぁ、いいんじゃない」と肩をすくめる。

これまで積み重ねた数々の失敗が、二人の視線を少しずつ穏やかに繋いでいるようにも感じられる。
そして、今ようやくスタートラインに立った気がする。
単純接触効果でも、フット・イン・ザ・ドアでもなく、ただ“素の自分”で一緒にいたいと思える人と向き合う。

そう決めた凌が一歩を踏み出すと、彩花は隣でそっと歩調を合わせてくれる。
携帯の心理学アプリなんて開く必要はない。
もう理論を並べ立てるより、相手のことをもっと知りたいという想いのほうが大きいのだから。

そうして二人は、雨の中を一緒に歩き出した。
行き先は特に決めていないが、きっとこれからはテクニックじゃなく、気持ちを交わす日々が待っている。
彩花がさりげなく笑いかける横顔に、凌は全身でドキドキを受け止めながら、傘のかわりにそっと彼女の手を引いた。

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