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静岡県丸ごと異世界転移

第1章 混乱の始まり

第一節 荒野に現れた青と白の大地

「見ろ、あそこだ」 グラナス・レオンハートの声が、乾いた風に溶けるように響いた
長い荒野を進んでいた彼とライラ・エセリアは、いま目を奪われる光景に出くわしている
先ほどまで何もなかった地平線上に、突然まばゆい閃光が走ったかと思うと、巨大な大地が丸ごとせり出すように姿を現したのだ
一瞬、蜃気楼かと疑ったが、それは間違いなく本物の土地だった

ライラは金色の髪を束ねたまま馬を止め、ふと息を呑む
「これほど大きな領域が、丸ごと出現したの?」 騎士の鎧に映る太陽の光が揺れている
目の前には大きな山がそびえ立っていた
山頂が雪で白く染まり、中腹あたりには深い青や緑の斜面が広がっている
完璧な円錐形のようにも見えるその山は、どこか神々しさを漂わせていた

「馬鹿な、こんな質量の土地が瞬時に出てくるなんて
山だけじゃない、町や道らしきものまである」 グラナスは渋みのある顔をさらに険しくし、くたびれたコートの裾が風に舞うのを気にも留めずに目を凝らす
ライラも同じ方向をじっと見つめると、舗装された細い線のような道路や建物のような影が点在しているのがわかった
「明らかに我々の世界のものではないわ」

そう言い切ったグラナスに、ライラは深くうなずく
あの山の姿に覚えなど一切ない
しかも山麓の広がりが切り取られたように整然としており、その周辺には碁盤の目みたいな区画が無造作に張り付いている
「こんな形状、どんな魔術でも説明できるとは思えない」 ライラの声に戸惑いが混じる

光の余韻がまだ遠くの空気を震わせているようで、耳を澄ますと僅かな放電音のような響きが感じられた
「厄介なことになりそうだ」 グラナスは腰の剣に手をあてながら、険しい視線を送る
ライラは愛馬を一歩進め、突然現れた土地を上から下まで見渡す
「大規模な転移が起きたのかしら
どんな存在がこれを引き起こしたのか、知りたいわ」

宙にはまだ微かな光の揺らめきが残り、そこだけ時間が歪んでいるような不安定な雰囲気をまとっている
二人のまわりには乾いた荒野が広がるが、その向こうには青と白の雄大な山が主張するように聳え立っていた
「もし人が住んでいるなら、そちらも相当混乱しているだろうな」 グラナスが唇を曲げ、少し皮肉っぽく笑う
ライラは言葉少なに手綱を握り直し、馬をそちらへ進める

行く先に何があるかはわからない
だが、これほどの異変を前に後退するわけにはいかなかった
共に視線を交わすと、ライラとグラナスは馬を駆り始める
荒野を進むひづめの音が土埃を巻き上げ、明るくも静かな日差しのもとに、二人の影が長く伸びていく
その先には切り取られたように出現した大地と、不自然なほど青い斜面を抱える白い峰が待ち構えているようだった

第二節 朝の静岡、いつもの笑い声

「今日の部活、きつそうだけどやる気あるよ
昨日の試合で勝ったし、気分はまだ乗ってる」 雨宮翔太は、くせっ毛の黒髪を揺らしながら足取りを急いでいた
身長はそこそこだが体格は引き締まっており、サッカー部のスポーツバッグを背負っている
隣には三島梓が静かな面持ちで歩く
彼女は黒髪のポニーテールを揺らし、大学に向かう途中だった

「体力だけはすごいね
でもちゃんと授業には間に合うの?」 ひとつ小さく息をつきながら問いかけると、翔太は苦笑気味に肩をすくめる
「大丈夫、大丈夫
さわやか行く予定もあるし、遅刻してたらハンバーグ食べ損ねるからね」 梓は呆れながら「はいはい」と返す
朝の街は穏やかな光に包まれていて、車の音や人々の足音がいつも通りだった

「今度またおでん巡り行こうよ
この辺、最近新しい店が増えたって噂だし」 そんな話題に翔太は目を輝かせる
「もちろん行く
静岡おでんは飽きないし、新しいダシに挑戦するのも好きなんだ」 梓は少し笑みを浮かべつつ、バッグの中から水筒を取り出してひと口飲む
二人の会話はごく平和で、特別な事件とは無縁に思えた

しかし、次の瞬間、微かな振動が大地を揺らし始める
続いて空が白く光り、踏切の警報音が耳障りな雑音に混ざって割れたような音を立てた
「な、何だ…?」 翔太は驚いたように周囲を見回し、梓も少し後ずさる
「急に明るすぎる
…まさか地震?」 二人の会話が続かないほど、強い光が視界を奪う

やがて辺りから悲鳴や車の急ブレーキ音が響き、踏切の向こうに見えるビルの輪郭が歪んで消えていくように見えた
「嘘でしょ
あれ、ビルが…」 目の前の景色がほんの数秒の間に変容し、静岡の街がどこか別の場所へ吸い込まれようとしているように感じられる
「さっきの話、冗談だったのに」 翔太の肩からずり落ちそうになったリュックが、地面にかすかに触れた瞬間、光がさらに強さを増した

そのまま二人は踏切から動けなくなったが、次々と駆け込んでくる周囲の人々のざわめきや、スマートフォンのエラー音が辺りを埋め尽くす
「梓、どうしよう」 短く問いかける声は震えていたが、梓もただ唇を噛んで前を見つめるしかなかった
こうして突然訪れた閃光が、静岡県全体を包み込んでいった

第三節 混乱する県境

やがて朝が進むにつれ、強烈な閃光が完全に収まった頃には、静岡県全域が驚くほど別の風景へと囲まれていた
県境にいた人々は口をつぐんだまま、まるで見当違いの場所へ迷い込んだかのように途方に暮れている
「おかしい
ここ、いつもなら高速道路が続いてるはずなのに」 市街地の外れに住む者がそう呟きながら道路を見やると、先が途切れ、その向こうにはどこまでも続く草原のような地形が横たわっている

「通信障害が出てる」 「テレビも映らないし、車のカーナビも狂った」 不安の声が重なり、道路や広場は一気に混雑する
町の防災スピーカーからは、うまく聞き取れない放送が流れるばかりで、繰り返し「冷静に行動を」と呼びかけているが、どこも大混乱が続いていた
ビルの上階からは遠くを見下ろせる人たちが「白い山がやたらと近くに見える」と騒ぎ立てる

「富士山にしては形がおかしいし、何か遠近感が狂ってるんじゃないか?」 そんな声も上がるが、誰も正確な状況を説明できない
歩道に立ち尽くす人々は、各自スマートフォンを操作して助けを求めるものの、ネット回線が落ちているのかエラー表示しか出ない
まるで世界そのものが途切れてしまったような感覚に、子どもだけでなく大人までもが立ち往生する

学校では教師たちが一斉に校庭へ生徒を集めようとするが、避難マニュアルに記された方法とはまるで違う未知の事態に職員室が大混乱に陥っていた
「とにかく生徒を安全な場所へ! でも外が安全だという確証がないぞ」 不安定な声が飛び交い、チャイムも鳴らせないまま誘導が始まる
大音量で鳴りっぱなしのクラクションに遮られ、何が正しいかの判断が難しい

街の大通りでは、車が列をなし、交差点の信号が点滅状態になっている
時おり救急車がサイレンを鳴らしているが、目的地がどこなのかさえはっきりしない
近くの高台にいる人は望遠カメラを手にして、県外に続くはずの風景が丸ごと消え、その先にまったく別の地形が広がっているのを捉えていた
「どう見ても、これは日本じゃないな…」

こうして短い朝のうちに、静岡県という一つの地域が丸ごと異世界へ転移してしまった
まだその事実を正確に把握できた者はいない
ただ、さっきまで笑い声が響いていた踏切も、大混乱の現場に変わり果て、通学や通勤もままならなくなっている
通りを急いでいた翔太や梓の姿は見えず、周囲では見知らぬ人々が口々に「どうなってるの?」と叫びながら、そちらを探す余裕すらなく右往左往していた

第2章 戸惑いと決断

第一節 静岡の新しい境界

県境がどこにあるのかすら曖昧になり、いつもなら高速道路が走っているあたりまで行くと、明らかに別の世界の気配が混じっていた。
草原のように見える広い大地の向こうに、紫色の花を咲かせる奇妙な木々が群生しているのが見える。
幹の肌はざらざらとして灰色を帯び、枝先に咲く花の形は壺のようにも見えた。
花弁らしき部分がかすかに動き、まるで風もないのに音をたてる。
これが普通の植物とは思えず、近くまで行って匂いをかぎたいが、周囲には見知らぬ虫の羽音が絶え間なく聞こえており、警戒心が先に立つ。

さらに目を凝らすと、草原の遠くの方をバサバサと何かが走り抜けているのがわかった。
四つ足でありながら背にはコウモリのような羽根があり、頭部には長い角が二本。
動物なのか、魔物なのか。
「なんだあれ…」
低い声でつぶやいた石川大吾は、背筋を伸ばしながらじっとその影を見つめる。
短く刈り上げた髪が汗で濡れ、頑丈な体つきからは熱気が立ちのぼるようだ。
「ああいうの、日本にはいなかったよな」
わざと明るい口調を混ぜるが、まるで笑えない光景を前に頭をかきむしる。

三島梓は少し離れた場所で、一心不乱にメモをとっている。
「背に羽根を持つ四足獣……説明がつかない。
あれがファンタジー作品に出るような魔物なのかはまだわからないけど、少なくとも現実の生態系には存在しないわ」
冷静な声で言いながら、ポニーテールを軽く揺らす。
その眼差しには、不安と興味とがないまぜになった光が宿っている。
「こんな未知の生き物が県境付近にうろついてるなんて、信じられない」
大吾はやや苦い顔で答えずに、ただ頷く。

サッカー部のユニフォーム姿がまだ残る雨宮翔太は、紫色の草を指先で弾きながら口を開く。
「これ、見た目は柔らかそうだけど、指にチクッとくる。
なんか変な植物だな」
そう言うと慌てて指先を確かめるが、血こそ出ていないものの薄い刺し傷のようなものができていた。
「うわ、痛くはないけど、なんか妙に熱い。
ヤバい毒とか持ってたらどうしよう」
困惑気味に言いながらも、興味津々な目つきをしている。
梓はノートにその草の特徴を書き加え、「後で図鑑とかで見比べたいけど、今はそんな余裕ないね」とつぶやく。

県庁の指示で県境付近に簡易の規制線が張られ、探索チームが派遣される予定だと聞いたが、そのチームはまだ来ていないらしい。
翔太たちは案内役や見張り役のボランティアから「迂闊に近づかないで」と止められる。
しかし、興味半分と危機感半分の気持ちが止まらない。
「僕たちはもっとはっきりと状況を知りたいんだ。
この県がどこに来たのかを」
言い切った翔太の声はやや震えているが、その瞳は決意の光を放っていた。

数十メートル先で、ガソリンスタンドの建物が半端に切れたかのように床が途切れ、その先は土が続いている。
そこには小さな草むらが広がり、見たことのない赤い実をつけた植物が茂っていた。
大吾はその真っ赤な実をじっと見つめ、「なんだかリンゴのようにも見えるが、怖くて近寄れんな」と額の汗を拭う。
「匂いは甘いのかな…」
翔太がぼそりとつぶやくと、梓は思わず苦笑してメモを閉じる。
「食べるなんて論外。
命がいくつあっても足りないよ」

大吾は辺りをもう一度見回した後、無意識に喉を鳴らす。
実際、空気も少し違っていて胸をざわつかせるものがある。
「見たところ、明らかに俺たちの知ってる世界じゃない。
転移、って言葉で済むような問題じゃなさそうだな」
そう漏らす声に、翔太と梓は小さくうなずく。
静岡が丸ごとファンタジー世界へ飛ばされてしまった――それを否定する要素はどこにもない。

第二節 動揺と情報の行き違い

夕方に差しかかり、太陽の光が斜めから照らすようになる。
街の中心部ではまだ余震のような振動を訴える人が多く、地盤が不安定になっているのではないかと住民たちが怯えていた。
一方で県庁の広場は、衝撃的な報告でさらに混乱している。
「県境あたりに謎の獣がいるって本当か?
しかも羽根が生えていたって話も……」
誰かの問いかけに、職員が曖昧な返答しかできない。

「上から具体的な指示が下りてこない」
職員の一人がため息まじりに答え、手元の書類をめくっている。
「どうやら道路網の先は別の世界なんじゃないかって話も出てる。
でもそんな馬鹿げたこと、信じられると思う?」
職員同士での雑談が漏れ聞こえてきて、近くにいた三島梓は耳をそばだてる。
周囲では数人の市民が真偽を確かめるようにそこへ寄ってくる。

「異世界かどうかはわからなくても、未知の土地であることは確かよね」
梓は冷静そうに見えるが、内心は大きく揺れている。
幻想小説やゲームの世界にしかないはずの生物が、本当に目の前に現れているのだから、無理もない。
しかし、今は対策を考える余裕が必要だと頭では理解している。
「このままじゃ混乱する一方だし、私たちも何か協力できることを探さないと」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、遠くから大吾の声が呼ぶ。

「梓、翔太と一緒にいたはずだが、あいつどこに行った?」
大吾が立ち上がったところに、ちょうど翔太が気まずそうな顔でやってくる。
「えっと、ちょっと聞き込みをしてた。
県境まで行って戻ってきた人がいるって話だったから」
そう言うと、翔太は視線を落として唇をかむ。
「でも、誰も確かなことを知らないんだ。
ただ、謎の生き物を見たって話ばかりで……」

少し離れたところでは、携帯電話が繋がらず困った様子の人や、非常用の水を求めて職員に詰め寄る人たちが入り乱れ、場が騒然としている。
大吾は頭をかきながらうなだれる。
「これじゃあ手がかりが得られそうにないな。
公的機関の指示もまだ混乱してる。
もしかしたら俺たちが直接見て回らなきゃならんかも」
梓はメモ帳を握りしめたまま、大吾と翔太を順々に見つめる。

「地図だってまるで役に立たないかもしれない。
でもどこかに手がかりがあるはず。
この世界がどうなっているか確かめよう」
そう言うと、翔太はまっすぐな瞳で大吾と梓を見上げる。
「俺、無鉄砲って言われるけど、同じところで足踏みしてる方が落ち着かない。
それで突っ走って後悔したこともあるけど」
言い終えると息を飲み、体をほぐすように肩を回す。

梓は何か言いかけたが、やがてわずかに笑ってから小さくうなずいた。
大吾は「しょうがねえな」とばかりに肩をすくめる。
今の状況は誰のせいでもないし、誰かが探りを入れるしかない。
通行止めになっている県境のいくつかを回って、事実を確かめよう。
そう心に決めると、三人は一旦、夕闇が迫る前に必要な物を準備するため、いったん解散して時間を調整することを約束した。

第三節 準備と決断の夜

夜になると、街は中途半端に電灯が機能しているところと、完全に真っ暗なままのエリアに分かれた。
照明がつかない通りに入ると、異様な静けさが広がっている。
屋内にいる人が多いらしく、道路にはほとんど車が通らない。
風の音だけが、どこか遠くから聞こえる。
でも、風の質がいつもの日本の夜とは明らかに違う気がした。

石川大吾は自宅に近い小さな倉庫の扉を開け、懐中電灯の薄暗い光の中でキャンプ道具を引っ張り出している。
「火を起こすセットに寝袋、ガスバーナーに予備缶……あとは水筒や折り畳みタープも欲しいな」
そうブツブツと独り言を言いながら、空のリュックに次々と突っ込んでいく。
机に座って頭を使うより、こうした準備作業の方が向いているのを自覚しているから、手際は悪くない。

外からかすかな足音が聞こえ、翔太と梓が連れ立ってやってきた。
翔太は未だにサッカー部のユニフォーム姿で、足元はスニーカーのまま。
梓は小さめのリュックを背負い、筆記具や手帳をまとめてあるようだ。
「うなぎパイとこっこも入れておいた。
栄養バッチリだ」
大吾は自信満々に笑い、リュックをぱたんと閉める。
翔太は妙に嬉しそうな表情で、「それ最強かも」などと真剣に頷く。

梓はやや冷めた目を向けながらも、すぐに地図のメモを広げる。
「まず北東の草原へ行ってみるのがいいと思う。
あそこには妙な花や木があるって話も多いし、魔物らしき生き物がうろついているという情報が集中してる。
どれだけ危険かわからないけど、見極めたい」
翔太は地図をのぞき込みながら、「俺、一応スタミナだけはあるから先陣切ってもいい」と鼻息を荒くする。

大吾は静かに唇を引き締める。
「気をつけないといけない。
未知の世界だから、人間に敵意がある生き物も出てくるかもしれないし、毒虫や毒草だってある。
軽装備で行くのは自殺行為だぞ」
そう言いながらも、彼自身の装備はほぼキャンプに近いものだ。
手慣れたアウトドア用品でなんとかしのげると信じているが、実際に魔物が襲ってきたらどうにもならないかもしれない。

梓はメモ帳をしまい、息を整えるように軽く肩を回す。
「命を落とすわけにはいかない。
だから危険を避けながらできる範囲で探る。
もし戻れそうにないほど危なくなったら、即座に撤退しよう」
翔太も大吾もうなずき合う。
もとから無謀な冒険者というわけではないが、現状では自分たちで動かなければ何も始まらない。
夜明け前に出発する手はずを整え、解散するときには、一種の緊張と高揚感があった。

家の窓を開けて外を見ると、遠くの暗闇にうっすらと光る植物らしきものが散在しているのがわかる。
日本の夜景にはまず見られない色合いで、青や黄緑に淡く光る葉が揺れている。
まるで星屑を地面に並べたかのような幻想的な光景を前にして、静岡県が確かに異世界へ飛ばされたと改めて思い知らされる。
こうして三人は、それぞれに決意を抱えながら眠りにつく準備を進めていた。
明日の朝、まだ見ぬ世界へ足を踏み出すときがやって来る。

第3章 出会いと交流

第一節 新たな視点との遭遇

夜明け前から準備を整えた翔太、梓、大吾の三人は、まだ薄暗い空気の中を慎重に進んでいた。
北東の草原を目指して歩き始めて数時間、朝日に照らされていく光景はどこか別世界のような気配をまとっている。
遠くから鳥のような鳴き声が何重にも重なり、見上げれば空は地球にいた頃より透き通っているように感じられた。
「静岡って感じ、全然しないね」
大吾が苦い表情でぼそりとつぶやき、視線を四方へめぐらせる。
かつての高速道路跡と思われるアスファルトの端が途中で途切れ、そこから先は一面の野原が続いている。

梓はノートを手に、地図のメモを確認していた。
「この辺はまだ建物が混在してるけど、もう少し奥に進むと完全に異世界の地形なんだろうね。
草木もこないだ見た紫の花なんかが多いし、どこまで行っても似たような景色が続いてそう」
翔太は彼女の言葉に頷きながら、「でも行ってみなきゃわからないことだらけだよね」と言い、わずかに緊張したまなざしを草むらへ向けた。

そうして三人がアスファルトの切れ目を越えて土の道を踏み出したとき、前方の草むらで人影らしきものが動くのが見えた。
かすかな甲冑のきしむ音と馬の鼻息が聞こえてくる。
「まさか、騎士…?」
大吾が声を潜め、サバイバル知識を総動員するかのように身構える。
次の瞬間、そこには鋼鉄の鎧をまとった数名の人間が姿を現した。
先頭に立つのは、長い金髪を後ろで束ねた若い女性で、背に美しい紋章入りのマントが揺れている。

「どうする?
こっちから話しかける?」
翔太が表情を強張らせながら小声で尋ね、梓は息をのみつつもうなずく。
危害を加えるつもりがないと示すため、彼女はゆっくりと手を上げて敵意のないことを示す。
すると、そちらに気づいたらしい女性騎士が、いっしんに手を上げて部下へ合図を送り、全員がその場で足を止めた。

その隊列の横から、くたびれたコートを羽織った男が馬から下りて近づいてくる。
茶色い髪に混じった白髪、渋みのある面差し。
一見すると騎士ではないようだが、腰には長剣を携えている。
「えっと、何か言ってる…?」
梓が耳を傾けると、男は聞き慣れない言葉をつぶやきながらこちらを見やる。
どうやら異世界の言葉らしく、日本語とは全く違う響きだった。

しかし、男は首をひねって考え込むような素振りを見せたあと、懐から小さな宝石のようなものを取り出して何やら呟いた。
すると次の瞬間、かすかに彼の声が異なる発音へ置き換わるように聞こえ、断片的ではあるが日本語が混じるようになった。
「聞こえるか。
俺はグラナス。
これは古代の魔術具。
少しだけ、おまえたちの言葉がわかる」
途切れ途切れの発音だが、日本語の単語がたしかに含まれている。

「魔術具って…翻訳アイテムみたいなものかな」
翔太が思わず呟き、梓と大吾も顔を見合わせる。
グラナスは深く息をついてから続けた。
「厳密には意思を伝達する術だ。
簡単な言葉しか通らないが、ないよりはマシだな」
そう言い終えると、奥に立っていた女性騎士も馬を降り、こちらへゆっくり近づいてくる。
透き通る青い瞳に警戒の色が浮かんでいるが、威圧的ではない。

「騎士団を率いていた者だ。
名はライラ・エセリア」
グラナスが補足し、ライラは硬い表情のまま、短くお辞儀をしてみせた。
どうやら、やりようによっては話が通じる状況らしい。
「助かった。
まさかこっちの世界の言葉が全く通じないんじゃないかって思ってたし」
大吾はふっと肩の力を抜き、目線を騎士団のほうへ送る。
馬や装備も見事だが、皆が戸惑いながらこちらをうかがっているのがわかる。

「そっちは一体、どんな国だ?」
グラナスの問いかけに、大吾が「静岡っていう日本の県で…」と説明を試みるが、言葉の端々がうまく伝わらないのか、グラナスは少し首をかしげる。
ライラも同じように難しい顔をしていたが、やがて呟くように何か言うと、翻訳の魔術具から断片的に日本語が変換される。
「突然…大きな土地…現れた。
危険かもしれない。
確認したい」

梓はポニーテールを揺らしながら、どう説明すればいいのか考え込む。
それでも相手が理解しようとしている意思を感じ取れたのは幸いだ。
ただ、このまま言葉だけで全部説明するのは難しいかもしれない。
「とりあえず、一度落ち着いて話し合えれば…」
翔太がそう提案すると、ライラは仲間たちに声をかけ、どうやら小休止のような形を取ることを決めたらしい。
その日は一行が比較的安全な草原の一角を選び、お互いの話を少しずつ交換することになった。

第二節 異世界の客と静岡の味

ライラら騎士団に警戒されつつも、翔太たちはリュックの中に忍ばせてきた静岡の特産品を見せることにした。
「自分たちの国がどんなところなのか、言葉じゃ足りないなら味で伝えようよ」
翔太が冗談めかして言うと、大吾は苦笑しながらもうなぎパイの袋を取り出す。
「これ、お菓子なんだけど…」
見た目が怪しいと思われないよう、梓が通訳用の魔術具を通じて「甘くて食べやすい」と補足する。

騎士団の若い隊員が恐る恐る手を伸ばし、一口かじると目を丸くして仲間に呼びかけた。
「甘い…けど、妙にいい香りがする」
翻訳魔術がどこまで機能するかはわからないが、表情だけで美味しいことは伝わる。
仲間たちも次々にうなぎパイを受け取り、口に運ぶ。
中には無言で頷きながら一気に食べきってしまう者もいて、翔太は「そんなに気に入ってくれたのか」と目を輝かせる。

「静岡茶もあるよ。
魔法の草じゃないから安心して」
梓が小さなバーナーでお湯を沸かし、急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。
香りが漂うと、グラナスが顔を近づけ、「これは煮た葉っぱの汁か?」と興味深げに尋ねる。
「そういう感じね。
でも身体が温まるし、リラックスできるって言われてるんだ」
紙コップに注がれた熱いお茶を、ライラは鎧の手甲を外して両手で受け取り、少し警戒しながら口をつける。

するとライラは瞳を伏せ、わずかに息を詰めたあと、ふーっと安堵のようなため息を漏らす。
「ほろ苦い。
でも不思議と落ち着く味だ」
その様子を見ていた騎士団の人々も興味津々になり、あっという間にお茶は大盛況となった。
大吾はニヤリと笑い、さらに「静岡おでんもあるぞ」と得意気に告げる。
先に茹でておいた黒はんぺんや牛すじに、特製ダシをかけて簡易容器へ盛る。

「あ、これは…何だ?」
鱗のような色合いに見える黒はんぺんを指さす騎士が首をひねる。
大吾は「魚のすり身を固めたやつでさ。
生臭くはないよ」と適当にジェスチャーを交えて説明する。
口にした騎士が驚きの声を上げると、その隣で「おい、ちょっと味見させろ!」と遠慮なく手を伸ばす者もいて、狭い空間が活気づいていく。

最後に翔太が切り札のさわやかハンバーグを出す。
アルミホイルにくるんで保温してきたが、多少冷めているものの、その香ばしい匂いは刺激的だ。
「こんな料理、見たことない…」
ライラは箸の代わりに短いフォークを借りて一口かじると、かすかに眉を上げて唸るような表情を見せる。
「やわらかくて、肉の味が濃い。
これがあなたたちの国の食文化なのか」
梓は自然と笑みをこぼし、「そう。
私たちはこういう料理を食べて暮らしてる」とさらりと答える。

思わぬかたちで始まった文化交流だが、騎士団員たちからは好奇や興奮の視線が注がれるばかり。
翻訳魔術のおかげで、ややぎこちないながらも会話が成り立ち、静岡グルメは大きなインパクトを与えているようだった。
時折ライラが騎士団の仲間と言葉を交わし、笑みをこらえきれない様子も見られ、ここまでの緊張は少し薄らいでいた。

そんな折、魔術具を手にしたグラナスが、急須の中身に興味を示すように近づいてくる。
「これはなんと呼ぶ?
……“お茶”か。
確かに飲むと身体が温まり、さっきより力が湧くような感覚がある。
ほんのわずかだが、魔力を補うものに似ている気がする」
その言葉に梓と大吾がはっと目を見合わせる。
翔太も思わず急須を見つめ、「まさか魔力の補助になるってこと?」と小声で問う。
グラナスは曖昧に首をかしげつつも、「はっきりとは言えないが、これまでにない不思議な力を感じる」とつぶやく。

「もしかすると、静岡茶が魔術の媒介になり得るのかもしれない……」
梓はメモを取りながら、わずかながら興奮を覚えるようにペンを走らせた。
大吾や翔太も目を輝かせるが、ライラは訝しげに「ただの飲み物が魔力を?」と唇を引き結ぶ。
だが、これ以上の詳しい検証はまだできそうにない。
とりあえず、静岡茶が“少しだけでも魔力を補強する”可能性を感じたグラナスの言葉は、一つの手がかりになりそうだった。

「もし本当に魔術を補うなら、今後の戦いでも役立つかもね」
翔太がそう囁き、梓は静かにうなずいた。

第三節 暗雲を告げる声

しかし、楽しい時間は長くは続かなかった。
騎士団の後方で見張りをしていた一人が走り寄り、ライラへ早口で何かを伝える。
翻訳魔術の届かない部分の言葉らしく、翔太たちには内容がわからないが、その騎士の焦った表情とライラの険しいまなざしを見れば、一大事が起きたのは明らかだった。

ライラは短くグラナスを呼び、「急ぎ、王都へ戻る準備を」と伝えるように見える仕草をする。
グラナスが宝石を握り、複雑な顔で翔太たちに向き直る。
「すまない。
古代竜の封印が解けたかもしれない、という報せだ」
「古代竜…封印?」
大吾がその言葉に反応し、梓と翔太も凍りついたように息をのむ。

グラナスは翻訳魔術のおかげで断片的に意思を伝えつつ、可能な範囲で説明する。
この大陸には太古の昔から竜という強大な生き物が眠っており、長い年月をかけて封印されてきたはずが、何らかの原因で蘇りそうだという。
翔太は「もしかして、僕たちが現れたことと関係あるんですか?」と心配げに問う。
グラナスは曖昧に目を伏せ、「そう考える者もいるだろう」としぶるように答える。

ライラは武装を整えつつ、翻訳魔術の力を借りて「私たちの国も、周辺の領地も危険だ。
古代竜が暴れれば多くの人々が被害に遭う」と言う。
その目には焦りと決意が混じり、これ以上ここで静岡グルメを味わっている余裕などないのが伝わる。
やがて騎士団は素早く馬をまとめ、グラナスやライラを中心に出発の準備を進め始める。

「待って。
もし原因が私たちにあるなら、誤解を解かないと大変なことになるんじゃ…」
梓がそう訴えるが、ライラは首を横に振るだけだった。
「すぐに詳しい情報を集めなければならない。
あなたたちが悪いという確証はないが、危険は増している。
王都で対策を練る。
会う機会があれば、また話をしよう」

そうしてライラは馬に乗り、翻訳魔術を握るグラナスもまた、やや複雑そうな表情を浮かべながら乗馬に合流する。
最後にグラナスが短く「また会おう」と言い残し、騎士団は草原の向こうへと姿を消していった。
地面には食べかけのさわやかハンバーグや静岡おでんの空容器が残され、さっきまでの活気がまるで幻のように消えてしまった気さえする。

大吾は空になった急須を見下ろし、「これからどうする?」と低い声で問う。
翔太は返事もできずに、ただ遠ざかる騎士団の背中を見つめるばかりだ。
梓は握り締めたメモ帳をゆっくりと開き、「古代竜と封印、そして私たちが転移してきたこと…どんな関係があるんだろう」と唇を噛む。

静岡の食文化が初めて異世界の住人たちに受け入れられたという手応えと、突如舞い込んだ巨大な問題の報せ。
二つの出来事が入り交じり、三人の胸には不安なざわめきが広がっていた。
ゆらゆらと吹く風に混じって、どこからともなく冷たさを伴う気配が漂ってくるような気がする。
未知の危機を感じ取りながらも、ここで立ち止まっているだけでは何も変わらない。
三人の視線が自然に重なり、それぞれが自分に何ができるのかを必死に考え始めていた。


第4章 試練と絶望

第一節 疑念と魔物の脅威

朝霧がうっすら漂う県庁周辺では、いつにも増して緊張感が漂っていた。
静岡県が突然の転移を経験してから数日が経つが、周辺の異世界住民からは「転移してきた県は危険なのではないか」という声が絶えないという話が飛び込んできている。
翔太や梓、大吾は県庁のロビーでその噂を耳にし、不穏な気配を感じ取っていた。

「実際、僕たちが何か悪いことをしたわけじゃないのにな」
翔太が受付のカウンターに寄りかかりながら小声で言うと、大吾は腕組みをして無言で考え込む。
ここ数日、県内にも見慣れない魔物が迷い込んでくる事態が相次ぎ、一部の市町村では被害が出始めていた。
「噂が広まれば広まるほど、俺たちが呼び寄せたって思われるかもしれない」
大吾はまぶたを閉じ、静かに吐息を漏らす。

梓は市役所の張り紙を見ていた。
「北西の山道で大型の狼型魔物が出たとか、南の漁港で巨大な甲殻類が暴れたとか、いろんな情報がバラバラに入ってきてる。
転移による環境変化で魔物が活性化してるのかもしれない」
静岡に住む人たちの混乱は止まらない。
通信網もまだ不安定で、全国ニュースを得ることさえできず、ここがどの程度異世界化しているのか誰も把握していない。

役所のエントランスを出たところで、数人の冒険者風の男たちとすれ違った。
見たところ剣や槍を携えており、どうやら近隣国から自主的にやってきた者らしい。
「あいつら、俺たちのことを横目で見てた気がする」
翔太は背中がむず痒い思いで、その足音が遠ざかるのを聞く。
すれ違いざまに聞こえた低い声を思い出すと、どうやら「転移した国は危険だ」「監視しておくべきだ」という内容だったように感じる。

大吾は「だからって手をこまねいてたら、余計に怪しまれるだけだな」とつぶやく。
梓も深くうなずく。
「各国の騎士団や冒険者が、こっちを悪者扱いしはじめたら、ただでさえ不安定な情勢が壊れてしまうかもしれない」
三人とも、先日出会ったライラやグラナスが持つ誠実な印象を思い返し、彼らなら真実を聞いてくれると信じたい気持ちがある。
しかし、それ以上に魔物の被害が広がりはじめているという現実が重くのしかかっていた。

「外にも何か方法があるかもしれない」
翔太は急須の入った小袋を握り、あのとき騎士団が喜んでくれた静岡茶を思い出す。
「こういう文化交流だけじゃ乗り切れないかもしれないけど、もし僕たちが役に立つなら動くしかない」
大吾は肩をぽんと叩き、「おまえの行動力は助かる。
だけど焦りすぎるなよ」と言い、梓も苦笑まじりに「情報分析は私に任せて」と続ける。

数時間後、県内から送られてきた報告を整理していると、東部の山間部で魔物が道路を塞ぎ、車も通れなくなっていると知る。
また一部の町には、近隣諸国から来た兵士らしき集団が姿を見せ、「この県に封印の邪魔をする力があるのではないか」と疑いの眼差しを向けているという。
「両方ともほうっておけば、確実にトラブルになる」
大吾は地図を見ながら唸り声を上げる。
「俺たちで行くしかないのか、あるいは県の自衛やボランティアチームに任せるか…」
翔太は決意を込めて頷き、「迷ってても仕方ない」と力強く言う。

政治的対立も広がりつつある以上、何か行動を起こさなければ現状がさらに悪化しかねない。
三人は改めて拳を合わせ、周囲の不安を少しでも和らげるために動き出そうと決めた。
だが、この時はまだ、さらに大きな恐怖が県境に迫っていることを誰も正確には知らなかった。

第二節 古代竜の襲撃

翌日の昼過ぎ、県庁の防災センターにて、翔太と大吾は混乱の只中にいた。
モニターに映し出されているのは、県北部の異世界側に隣接する都市を俯瞰したカメラ映像。
ビル群の向こうから、巨大な影が迫っているのが見えた。
「嘘だろ…あれが古代竜?」
翔太の声はかすれ、体温が一気に奪われるような感覚に襲われる。

画面には黒紫色の鱗をまとう巨大な体躯が映し出され、翼を広げたその姿はビルの何倍もの高さがある。
時折口から赤黒い炎のような息を吐き、周囲の建物を焼き払っているのが遠目でもはっきりわかる。
「こんなの、どうやって止めればいいんだ」
大吾はぎりっと奥歯を噛み、モニターの前で拳を握りしめる。

県北部の町では避難指示が出たが、魔物の出没が相次いだ混乱もあり、避難が遅れている地域があるらしい。
加えて、異世界の近隣諸国から援軍は届かないどころか、静岡県のせいで竜が目覚めたという風説が広まっているため、協力は期待できそうにない。
「まさかここまで酷い惨状になるなんて」
梓は自室のパソコンを使い、外部カメラの映像や被害状況を必死にまとめようとしていたが、通信障害で思うようにデータが集まらない。
「人命救助を最優先するべきだよ。
でも、この規模の災害を止める手だてがない」

やがて各所から刻一刻と悲鳴のような連絡が入り始める。
「竜の火炎で病院が焼失した」「ビルが倒壊し、道路も分断された」――聞くだけで胸が潰れそうな報せが次々と飛び込んでくる。
翔太は何度もモニターを見返し、竜の巨体がビルをなぎ倒す光景を見て、吐き気すら覚えた。
「これが封印されていた災厄の力なのか…」

激しい火炎が画面を覆った瞬間、映像はノイズまじりになり、やがて完全に途切れてしまった。
周囲のスタッフたちは愕然と沈黙する。
「何もできなかった…」
呆然とつぶやく翔太に、大吾も声をかけることができない。
梓の目からは涙が浮かびかけていたが、彼女は唇を強くかみ、どうにか自制しようと耐えている。

そこへ駆け込んできた別の職員が、息も絶え絶えに伝える。
「周辺国の兵士たちが市街地へなだれ込んできています。
竜の被害を見て、静岡が原因だと怒りを向けはじめました。
一部では『この県こそ脅威だ』と過激な行動をする者もいるようです…」
翔太は唇を震わせ、「僕たちが、ここまで悲惨な状況を招いたっていうのか」と搾り出すように言う。
理由はわからないが、少なくとも古代竜が目覚めた契機が転移にあると疑われてもおかしくない。

やりきれない思いを抱えたまま、三人はバタバタと混乱する廊下を見つめる。
大吾が「急いで避難誘導を手伝うぞ」と声を上げるが、その視線には失望と焦りが混じっている。
実際、巨大な竜の前では人間の手立てなどないに等しい。
「どうして、どうしてこんなことになったんだ」
翔太は立ち尽くし、拳を固めたまま震えが止まらない。
このとき県庁のあちこちで「私たちが来たせいだ!」という怒号や泣き声が混在し、混乱と絶望感が頂点に達しようとしていた。

第三節 後悔と無力感

夕方に近づくころ、県庁の廊下には怪我人や避難者があふれ、応急処置のスペースと化していた。
火災や倒壊が相次いだ影響で多くの市民が行き場を失い、一部では異世界の兵士との衝突まで起きているという。
翔太は廊下の片隅で座り込み、うなだれるように頭を抱えていた。
「もし僕たちがここに来なければ、竜は起きなかったかもしれない」
彼の手には、さわやかハンバーグの包装紙がくしゃっと握られている。
少し前までは楽しげに配っていたものが、今は虚しくゴミになっていた。

梓は壁にもたれるようにしてノートをめくり、何度も同じ記録を読み返しては吐息をつく。
「私、対策をもっと早く考えられたんじゃないかな。
情報を集めて計画を立てておけば、被害を抑えられたかもしれない」
自分の能力を過大評価していたと思いたくはないが、心の奥から悔しさが湧き上がる。

大吾は床に落ちていたガラスの破片を拾い上げ、黙ったままそれを見つめる。
「俺は力仕事が得意だが、こんな巨大な相手には何も通じねえ。
県を守るには無力すぎたな」
豪快な笑いさえ出てこないこの状況で、三人とも自分の存在意義が見えなくなっているようだった。

職員の案内でやってきた別室では、避難してきた住民たちの声が鳴りやまない。
「転移なんかしなければ、私たちの家は焼かれずに済んだのに」「あの竜はあんたたちのせいだろ」と罵声を浴びせる者もいる。
翔太の耳にそれらが突き刺さり、目を閉じてもなお頭の中で反響し続けた。
そばにいる梓も顔を伏せ、言葉を失ったままだ。
大吾は拳を握りしめながら、それでも住民の言い分を否定できないでいる。

しばらくして救護スタッフから「負傷者の搬送を手伝ってほしい」と声をかけられ、三人はフラフラと立ち上がった。
体力はあるので、大吾や翔太にはやれることはある。
梓も医療班をサポートして必要な物資リストを作るくらいはできる。
だが、根本的な解決策とは程遠い行為でしかなく、自分たちが望んでいた「静岡を守る」姿には到底及ばない。

一息つく間もなく、次の負傷者が運び込まれ、同時に別の職員からは「防衛ラインが崩れそうだ」「このままでは市街地全体が火に包まれる」と叫び声が上がる。
翔太は担架をつかんだまま、その場に倒れこむように座り込む。
足が震え、頭が真っ白になっていた。
「もう、どうすればいいんだ…」

その背中に手を当てた大吾も同じように暗い瞳をしている。
梓が視線を落としたメモ帳には「竜封印」「異世界の封呪」など、つたない情報だけが走り書きされていたが、具体的な策にはほど遠い。
こうして静岡県民を含む多くの人々が思い描いていた希望は、圧倒的な絶望の前に粉々になりつつあった。
三人はそれぞれ自分の無力さに打ちのめされ、県が丸ごと焼き尽くされるかもしれないという恐怖から逃れられない。
暗い廊下には人々の嘆き声と、時折聞こえてくる竜の咆哮のような轟音だけが残り、誰の胸にも沈むような重苦しさが広がっている。

第5章 逆転と未来

第一節 竜封じの策

県庁の廊下には、魔物の被害や竜の襲撃から避難してきた人々があふれていた。
痛々しい包帯を巻いた者や、不安そうに子どもを抱きしめている親の姿が目につき、雑踏をかき分けるようにして進むのもやっとだ。
そんな中、雨宮翔太、三島梓、石川大吾の三人は、ある部屋へ急いでいた。
ここ最近、彼らは県の災害対策本部を手伝う立場として行動している。

そもそも三人はただの学生や社会人で、公式な権限を持っているわけではない。
しかし、異世界へ転移した直後に危険な県境へ自発的に足を運び、魔物の出没や封印術についての情報を得てきたことで、県幹部たちに注目される存在となった。
翔太たちはライラやグラナスなど、異世界の騎士団と直接接触した数少ない県民でもある。
それだけでなく、大吾のアウトドア技術が被災地の応急処置や物資運搬に役立ち、梓の冷静な分析が混乱した情報の整理を助けている。
さらに翔太の行動力のおかげで、危険地域の偵察や現地との交渉を前向きに進められた。

「学生なんかを巻き込んでいいのか」と懸念する声も一部にあったが、こちらも人手が圧倒的に足りず、県と異世界を橋渡しできる人材は一人でも多く必要だった。
実際に騎士団とやりとりができるのは翔太たち数名だけであり、何より彼ら本人が「やるしかない」と強い意志を示していたのが大きい。
こうした経緯が重なり、三人は災害対策本部のメンバーとして迎え入れられ、日々雑用から現場対応まで奔走している。

その災害対策本部が置かれた会議室は、今も沈痛な面持ちの職員や市町村の代表者で埋まっていた。
「次の手立てが見つからないなら、このままでは全滅するかもしれない」
会議の中心にいた県幹部がテーブルを叩きつけ、思いを吐露する。
翔太たちは胸が締め付けられるような思いで、その言葉に耳を傾け、隅の席へ腰をおろした。
大吾は地図を眺めながら「古代竜に対抗できる武器があるのか」と唇を引き結び、梓はノートを取り出して首をかしげる。

「静岡に防災のノウハウがある。
地震や火災への対処、それを何とか応用できないかな」
翔太が会議室の隅から声を上げた。
幹部たちは一瞬驚いたような顔で振り向くが、彼が異世界からの情報を持っていることを知っているため、一瞥した後すぐに話を聞き始める。
「もし竜の火炎を抑えるなら、防火と避難ルートの確保だ。
建物自体を守るのは難しいが、人命を守るために使える知識はあるはず」

大吾もテーブルを囲む人々の方に身を乗り出し、日焼けした肌が緊張で微かに汗ばんでいる。
「山火事や大規模災害への対処は、県民なら多少なりとも知識がある。
それを魔法と組み合わせれば、竜に対しても何らかの対策が取れるかもしれません」
場の空気が少し変わり、梓はノートをめくりながら「実は封印術について、騎士団から情報が送られてきています」と続ける。

ライラとグラナスが王都で得た知識によると、古代竜を封印するには強力な触媒と莫大な魔力が必要だという。
翔太は思わず急須の袋を握りしめ、「まさかお茶が魔力の補助になるかもって話、試してみる価値はあるよね?」と口を開く。
職員たちはそれに半信半疑の表情を浮かべつつも、この緊迫した状況で却下する余裕はない。

「この竜封じ計画が成功するかはわからんが、やらなければ全滅だ」
幹部の一人が深刻な口調でそう言い放ち、会議室に息を詰めたような静寂が広がる。
それでも翔太たちは防衛や避難、騎士団との連携プランを次々と提案し、周囲もそれに呼応するかのように意見を出し合った。
こうして学生や一般人だったはずの三人が、県の災害対策本部の“要”のような働きを担いながら、失意の中にも一筋の希望を見いだそうとしている。

「ここからが正念場だな」
大吾がごつい腕を組んで口を引き結ぶ。
梓はノートに“竜封じ計画”と大きく書き込み、翔太は決意に満ちた視線を交わした。
異世界の住人との橋渡しができるのも、今や彼ら数名だけ。
ならば自分たちの力で、静岡とみんなを守るしかない。

第二節 古代竜との最終決戦

朝早くからの薄雲がやがて晴れ、見上げる空は異様に青みを帯びていた。
翔太たちはライラやグラナスら騎士団と合流し、焦げた建物や瓦礫が立ち並ぶ近隣都市の郊外へ向かって進軍を始める。
町の奥には依然として黒紫色の巨大な竜がうずくまり、時折低くうなるような咆哮を響かせていた。
その威圧感は画面越しに見るのとは比較にならないほど圧倒的で、翔太は喉がからからに渇くのを自覚しながら進む。

梓は封印術に必要な陣形を記した紙を手に、ライラと話し合っている。
「円を作り、騎士たちが魔力を込めた剣を地面に刺す。 そこへお茶を用いた触媒を注ぎ込み、封印の呪文を一気に発動するって聞いてるけど、本当に効果あるの?」
ライラは鎧のすき間から覗く青い瞳で、静かにうなずく。
「この国に古くから伝わる儀式だ。
やはり大量の魔力がいるが、あなたたちのお茶がその不足分を補う形になる。
私たちも信じがたい話だが、今はすがるほかない」

消防車や救急車も数台加わり、後方では大吾が人員を指揮して火炎対策を準備している。
ホースから勢いよく放たれる水は魔法ではないものの、周囲の騎士団員は興味津々らしく、「あれが機械の力か」とひそひそ声を立てる。
翔太は周囲の様子を見回し、急須の中に特別濃く煮出した茶を準備していた。
「これが魔力の増幅になればいいけど…」
自分の無鉄砲な発想だとわかっていても、やらなければ誰かが命を落とす。

グラナスが長剣を抜き、荒れた大地の中央へ歩み寄る。
竜は遠くでその動きを監視しているかのように、低くうなる声を響かせる。
「今だ!
円陣を作るぞ」
ライラが声を張り上げ、騎士たちが陣形を整える。
梓と翔太はその内側に急須や水筒を置き、大吾は外周で消防車と協力しつつ、もしもの火災に備えている。

空気が一瞬にして張りつめ、竜が大きく翼を振り上げると、黒い炎の渦が彼方から飛んでくる。
大吾は「今だ、放水!」と叫び、消防車が強力な水流を放ち、ライラや騎士団員も盾を重ねて守りを固める。
激しい爆音が響き、地面が揺れるほどの衝撃が走るが、なんとか耐えきった。
「翔太、梓、こっち来い!」
大吾が合図を送り、二人は急須の中身を魔方陣に注ぐために走り寄る。

グラナスが古代語で呪文を唱えはじめ、ライラも剣を地面に突き立てて目を閉じる。
騎士たちが剣先にそれぞれの魔力を集め、円陣が青白い光を帯びてきた。
「今だ!」
梓が指示を出し、翔太が急須を傾けて濃い静岡茶を注ぎ込む。
緑の液体が光に溶けるように広がり、騎士の剣先がさらに強い輝きを放つ。
大吾は背後で火炎への警戒を続けながら、「頼むから成功してくれ」と唇を噛む。

そのとき、竜が満を持して飛翔し、巨大な影が頭上を覆う。
黒い鱗が夜空を思わせ、ありえない規模の息吹が周囲を焼き尽くさんと迫る。
「あと少し…!」
グラナスの声が震え、ライラが剣に全力で魔力を注ぎ込む。
すると円陣から無数の光の束が立ち昇り、竜の脚や胴体に絡みつくように束縛の鎖を形作った。
悲鳴にも似た竜の咆哮が響き、一瞬、世界が揺れるような錯覚を覚える。

騎士たちは耐えきれず何人かが地面に倒れ込むが、その間も封印の光は途切れない。
梓は頭が割れそうなほどの耳鳴りに耐えながらノートを握りしめ、翔太は足がすくむのをこらえて陣の真ん中に佇む。
大吾が「もう少し耐えろ!」と叫んだとき、グラナスとライラが最後の呪文を唱え終えた。

風が一気に巻き起こり、緑と青白い光が束になって竜の体を包む。
ずしん、という衝撃が大地を揺らし、竜が息絶えたように動かなくなった瞬間、封印の鎖が光の壁となって収縮した。
残されたのは燃え焦げた地面と、崩れ落ちるように座り込む人々の姿。
「封印……成功したのか」
翔太が膝から崩れ落ちるように倒れ込み、大吾は地面に拳を当てながら空を見上げる。
梓は震える手でノートを抱きしめ、うなだれる。

やがて、騎士団員たちの間から歓声や泣き声が混ざったような響きが広がる。
グラナスは剣を支えに立ち上がり、ライラも肩で息をしながら「これで終わった……はずだ」と深く息をついた。
遠くで消防車や住民たちが拍手と歓声を上げはじめ、みるみるうちに疲れ果てた現場が祝福の声に包まれていく。
こうして、静岡茶と騎士団の魔法を組み合わせた竜封じの作戦は成功を収めた。

第三節 新たな日常

それからしばらくして、焦土と化した町の復旧が本格的に進み始めた。
竜が封印されたあと、近隣諸国も誤解が解けたらしく、正式に静岡県に手を差し伸べてくれるようになった。
騎士団が率先して瓦礫撤去を手伝い、冒険者たちが魔物の討伐や警護を担うようになったのは大きい。
ライラは焼け焦げた鎧を何度も修理しながら、町の巡回を続けている。

「私たちがあなたたちを悪者だと思ったこと、後悔している」
ライラが白馬に乗りながら声を落としてそう告げ、翔太は「いや、俺たちも何もできずにすみませんでした」と頭を下げる。
一方で大吾は、県庁の復興拠点で忙しく動き回っていた。
災害対策のノウハウやキャンプ技術を活かし、テント村や避難所の整備を進める。
「異世界の騎士団と肩を組むなんて想像もしてなかったな」と苦笑しつつ、汗を拭う。

梓は騎士団の図書館で竜の封印術をさらに研究し、必要ならば再封印できるよう準備を続けている。
そのかたわらで、通訳魔術具の精度を高めるためのメモを重ね、いずれ言語の壁も完全になくせないか模索中だ。
「おでんやハンバーグを一緒に楽しみながら、意見交換できる未来が来るかもしれない」
ポニーテールを揺らしながらノートにペンを走らせ、黙々と情報をまとめる姿は以前にも増して熱心だ。

街には仮設店がいくつも立ち並び、そこここで“静岡おでん”や“さわやかハンバーグ”を求める異世界住民の行列が見られるようになった。
県民も逆に異世界の珍しい作物や料理を取り入れ始め、「新しい未来を作ろう」という前向きな空気が生まれている。
大吾は休憩時間に大鍋でおでんを作り、騎士団員にふるまいながら「疲れにはうなぎパイもいいぜ」と笑う。
翔太が手伝いながら「やっぱりこの味が落ち着く」と目を細めると、周囲の冒険者たちも好奇心たっぷりに覗き込み、いつの間にか和やかな輪ができていた。

静岡県が元の世界に戻る手段はまだ見つからない。
だが、竜の災害を乗り越え、異世界との共存や助け合いが始まった今、県民は地元愛を武器に、新たな道を切り開こうとしている。
焦げた建物の再建やインフラの復旧には時間がかかるが、その合間にも笑顔が増えつつあるのがわかる。
騎士団の輝く甲冑と、消防車や災害対策グッズが同じ通りを行き交う不思議な光景が、今や「新しい日常」となりつつあった。

梓は広場の隅でノートを閉じ、ポニーテールを揺らして深呼吸する。
「まだ帰れないけど、ここでできることは山ほどある。
私たちが作る新しい静岡、見てみたい」
そうつぶやくと、翔太と大吾も隣でうなずく。
竜の脅威を封じた今、待っているのは復興とさらなる未知。
そこにわくわくする気持ちが、三人の胸に小さな希望の炎をともしていた。


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