大菩薩峠紀行 1
大菩薩峠といっても、若い方々は、関東で山歩きをする人をのぞけば、あまりご存知ないかもしれない。筆者がそこへ行ったのは35年も昔の秋のことである。あまりに古い話ではあるが、憧憬の地に向かうのに心が高鳴った印象が残っている。
筆者の職種は当時まだ土曜半ドン勤務であり、土曜恒例の午後のサービス残業を、その日に限って早めに切り上げ、荷造りと身支度とにいそしんだ。電車を乗り継ぎ、途中で日が暮れ、中央線下りに無事に乗り、塩山駅からの最終バスを終点「大菩薩峠登山口」で降りた客は筆者ただ一人であった。
バス停からほど近い温泉民宿あけほの荘に一夜を過ごし、翌朝こしらえてもらった弁当を背に登山に挑んだのであった。抜けるような青空の下林道を詰め、沢沿いに石のゴロゴロとした道を踏みやがて樹林から尾根にとりつくように登る。しばらくして高原のような丸川峠に着いた。一休みをして再び樹林の中の道を登りこのルート最高峰の大菩薩嶺を踏む、標高2057mだそうだ。尾根を南へ下り雷岩やら、眺望を楽しみながら歩き賽の河原にてお昼ご飯。ここは旧来の大菩薩峠だったとも言われているらしい。
昼の大休止からピークを一つ越えていくといよいよ大菩薩峠である。いくつか石碑があり介山荘という山小屋があり、展望の開けた気持ちのいい天地である。時刻はまもなく午後1時、下山後の路線バスを思うとゆっくりはしておられぬ、名残は尽きねど下山路を探す。この日、弱冠20歳代だった筆者は、勇猛果敢にも東へ、丹波山村への道をたどろうと思っていた。図らずも旧青梅街道に沿う道行きである。降りはじめて、ニワタシバ(荷渡し場)からフルコンバ1時15分、古木場とか古飯場とかから転訛された地名とも聞く。ノーメダワにかけて尾根道を往くので下山とはいえアップダウンは避けられない。追分から左の谷筋へ下っていくとワサビ谷へ降りしばらく登って藤ダワの鞍部で午後3時小休止、右の沢筋へ降りて進むと谷を北へ渡る車道に出会う、車道を下って行けば丹波バス停である。無事に奥多摩行きの路線バスで帰途についた。
と、ここまで綴ってみたが、本稿「大菩薩峠紀行」は、単なる山行記が目的ではない。「35年前の山の思い出話」はどうでもいいのだ。令和の今、忘れ去られてしまいかねない、だが我が世代にとって大事な小説『大菩薩峠』に因んで語ってみたいのである。
取り憑かれたようにひたすら玉川上水を歩いた小学生の頃、目指すゴールの取水堰の羽村について書かれたものを探すと、必ずや‘中里介山’と『大菩薩峠』の名を見るのであった。羽村にはその当時「大菩薩峠記念館」がまだ存在していて、その紹介記事なども目にした。さらにその頃の『大菩薩峠』への世間の認識も「日本最長の未完の伝奇小説」といった怪し気な説明がなされたりもしていた。羽村へ、羽村へと気持ちがぐっと引き寄せられていた玉川上水好きの小学生が、知らず知らずのうちに“大菩薩峠”“中里介山”という未知なる言葉をすりこまれ、もはや説明もつかない、意識下に潜むうごめきと言うか形而上的引力により「いつかこの小説を読まねば」との思いにまで深まってしまったのである。
その「いつか」は19歳になる夏におとずれた。書店の「今月の新刊」コーナーに文庫版の『大菩薩峠』が平積みされていたのだ。迷わず手に取りそして一気に読んでしまった。第1巻には「甲源一刀流の巻」から「三輪の神杉の巻」までが収められ400頁を越える厚さがあったが物語の展開に惹きこまれてしまったのだろう。同時に発売された第2巻もすぐに買い求め大いに楽しんだ。大菩薩峠でスタートした話が、舞台を江戸の町々、庶民の長屋、旗本屋敷等々と展開し、個性的な登場人物たちの活躍によって、京都、十津川、伊勢、甲府といったそれぞれの土地の風物が背景に描き込まれ読んでいて飽きないのである。
1913年に都新聞で連載が開始されたこの物語は、大きな反響を呼び、1941年に「椰子林の巻」が発表された後、作者の死により未完となった。物語の発端の鮮烈なシーンを中心に、何度も映像化され、ある一定以上の年齢の人々は、剣の使い手机龍之助についての何らかのイメージを抱いておられることであろう。著名な人々によるこの作品に対する評論も数を知らない。多くの「何か」を投げかける大作であろうことは間違いない。
筆者は文学を論じるような力量はもたない。読んで純粋に楽しんでストーリーを後追いするのみだ。たまたま物語ゆかりの地に行き合ったりしたとき、そこに立ったことになっている登場人物の姿などを想像し悦に入るのは楽しい。35年前の峠訪問には、そんな意味があったのである。介山荘のある今の峠なのか賽の河原なのか、峠にて龍之助と老巡礼、孫娘のお松に想いを馳せたのであった。
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