大菩薩峠紀行 6
30年前の春、紀伊半島ドライブを楽しんだ。名古屋から南下し尾鷲あたりからは熊野灘を左に眺めながら快適に走った記憶がある。那智滝、青岸渡寺を訪ねた日は青い空が気持ちよかった。太地で鯨を味わい潮岬を過ぎて太平洋側にまわり、白浜ではあちこち見物をした。そこから国道311号線、すなわち熊野街道「中辺路」を遡り熊野本宮大社を目指す山間の道。さらに十津川沿いに山また山の景色、国道168号線を上り詰めてたどり着いたのが五條の町。吉野の桜には少し早かったが、明日香をめぐり、長谷寺、室生寺などを訪ねて東進し、県都 津に下って帰ってきた。
そんな昔話をご披露したのは、大和三輪まで進んだ「大菩薩峠」の物語が、さらに紀伊半島の山奥に展開するからである。筆者の行路と必ずしも一致はしないが、イメージとして熊野路の山深さと小説の風景が重なって見えてくるのである。
お浜と瓜二つのお豊が亀山の実家に帰るというのに、請われて龍之助は用心棒として同行することになる。一行が通ったであろう三輪、桜井から東へ続く道には、神話時代からの伝承が息づくという。上記のように、筆者が津の街へ向かった道でもある。初瀬、榛原と進んだあたりで、あろうことかお豊が誘拐されてしまう。前後淋しい山道で、以前からつきまとっていた金蔵という放蕩者に襲われてしまったのである。少し離れて後ろから進んでいた龍之助、異変に気付き高台から眺めまわしたものの、土地勘とて無いただ茫々たる原野につづく深林、峩々たる山々、あっさりと探索をあきらめ、そのまま一人 旅立ってしまうのであった。そもそも無責任、無節操の男である。信念らしきものも見当たらない。次に龍之助が姿を現すのは伊賀 上野の吉田屋という旅籠であるが、そこで、なんと今度は天誅組に加わってしまうのだ。京では新選組と誼を通じていたのではなかったか!
天誅組は史実では、公卿中山忠光を中心とした尊王攘夷の志士たちであり、文久三年(1863)8月に五條の代官所を襲撃したものの、幕府側の追討軍との1ヶ月余の激戦の後、敗れ去ったという事件である。五條と十津川の分水嶺である天辻峠に本陣を置き、十津川側からも隊士を大勢集めて幕府勢に抵抗したという。かつて筆者自らたどった十津川から五條への道筋にそんな歴史があったとは。そのあらましが作中にも軽くたどられ、散り散りになった浪士たちのうちの11人が風屋村というところに落ち延びた場面から次のシーンが始まる。上記の国道168号線沿いの十津川に風屋ダムがあるから、地名としてはこのあたりが舞台なのであろう。山また山の一帯である。その少し上流には「日本一」を謳う「谷瀬の吊橋」もある、十津川の核心と言っても許されよう。作者中里介山も「ここは十津川郷の真ん中で名にし負う山また山の間です。」と書いている。
11人の中に龍之助もおり、彼らはたまたま見つけた猟師の小屋に転がり込み猪鍋で腹ごしらえをするのだが、残党狩りの藤堂藩兵たちに取り囲まれ、小屋を火薬で爆破されてしまう。即死した者、負傷し捕縛された者、逃げ延びる途中で捕らえられた者、合わせて10名、たった一人、龍之助だけがその場から逃れたのであった。
話変わって、榛原の山中で金蔵にかどわかされたお豊であるが、拉致され金蔵の両親の経営する温泉宿の若女将におさまっていた。場所は十津川から山脈を越えて西へ十三里、龍神温泉。小説『大菩薩峠』では道成寺の物語として知られる「安珍・清姫」の伝説が伏線となってストーリーが進む。夜更けて「清姫の帯」と呼ばれる雲を見てしまったお豊は、それを龍神の社の修験者に告げに行き水垢離をする。するとそこに龍之助が現れるのである。猟師小屋の爆発事故で、からくも落ち延びてきたものの、爆発によって龍之助は視力を失っていた。なのにどうして龍神の村までたどり着いたのであろう。龍神の社の修験者にすすめられ滝の水で眼を洗い療養に取り組むのだが効果はない。そこで再会したお豊と龍之助、いずこへとも知れず姿を消してしまう。
物語はまた舞台を転換していく。