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「トトとあなたには重なるところがある」

日常的に映画を観ていると、ふとしたときに「映画みたいだな」と思える瞬間に遭遇することがある。

"映画好き"と自称するわたしたちは、他の人よりちょっとばかり「映画の引き出し」を多く持ち合わせていると思う。たまたま街中のカフェで流れたBGMに「あ、あの映画のサントラだ」と気付いたり、友人とのくだらない会話が「今の、あの台詞に似てたな」なんて思えたり。そんな風にして、映画を観ていないときも、どこかで映画と繋がっている感覚を持っている、"どうしようもない"ファンはきっと少なくないだろう。

そんな中でわたしにも、"忘れたくても忘れられない" 映画のような思い出がある。大好きだった人と、ちょっとマニアックなとある映画を、深夜の、小さなアパートの隅っこで、2人だけ、いつもより小さめの音量で、なぜか少し悪いことをしているような気持ちを秘めて、観たことだ。

「え~!この映画知ってるんだ~!」と、ちょっとよそよそしい会話から始まったのも束の間、同じシーンで微笑み合ったり、ぐっと息を殺している様子が互いにひしひしと伝わって来たりした。映画を観る環境としては最悪なのに、どんなに豪華な設備の映画館よりも、遥かに感動する映画体験がそこにあって、その多幸感が少しも零れ落ちないよう、限られた時間に必死でしがみつく、そんな気持ちの夜だった。

あの日のことを振り返ると、いつも頭に浮かぶ映画がある。
そのとき観ていた映画とはまったく別の映画だけど。あまりにベタすぎて、そんな作品と自分を重ね合わせるのはとても気恥ずかしく思えてしまうけれど。
でもそんな気持ちを、情景を、的確に言い表せるのは『ニュー・シネマ・パラダイス』以外にない。わたしの脳内ではいつ何時も、主人公トトの目に涙を浮かべる表情と、映画音楽の巨匠モリコーネのあの曲とが、セットで思い起こされるのである。

もちろん、こんな話をベラベラと喋るのは気が引けるので、一緒に映画を観たあの人にも話して聞かせたことはなかった。けれど、幾年か経ったとき「トトとあなたには重なるところがある」と言われて、わたしは驚いた。きっとそんなやり取りもあって、より一層あの晩の思い出と『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画が結びついてしまっているのだと思う。でもそれは、その後のトトの運命を示唆する言葉だったのかもしれないなと思い、嬉しいような悲しいような気持ちになったりもする。
が、これ以上はわたしだけの思い出としておきたいから、続きは皆さんの想像にお任せすることとしよう。

兎にも角にも、こんな風にして映画ファンは、自分の身に起きた強烈なインパクトの出来事と、それまでに鑑賞してきた膨大な数の映画とを重ね合わせることで、勝手に自分の人生を脚色したり、昇華したりして、前を向いて歩き続けているのではないかと思うのだ。まったく"おめでたい奴ら"だが、わたしはそんな自分自身を含めて、映画好きのみんなが大好きなのである。

話を「映画にまつわる思い出」に戻して。
わたしは、日常に溶け込む映画の力には、凄まじい威力があると思っている。たった2時間の映画を観ただけで、どこか遠くに旅行でも行ったような気分になったり、忘れかけていた過去の自分の感情がリアルタイムで思い起こされたり、はたまた思いもよらない新しい自分に出逢うことになったりするのだから。

ただ椅子に座って、暗がりの部屋でスクリーンを観ているだけなのに、その裏でうごめく人々の思惑を想像すると、それで1本の映画が出来上がってしまうほどに、何人にもオリジナルのドラマがあることが伺える。そんな日常と、人と、映画によって生み出される"思い出"を感じるたびに、「映画好きで良かったな~」と思わされるのだ。


いま、わたしの周りには映画を作る者、映画に出演する者、映画を配給する者、そんな友人すらもいたりする。わたし自身は直接その畑に足を踏み入れていないが、彼らが見る世界も、わたしたちと何ら変わりない日常で、同じように映画とともに生きている人たちに他ならない。

彼らはわたしたちと同じ日常の延長で映画を創り、わたしたちは彼らの創る映画の延長で日常を生きている。あの夜の映画にまつわる思い出は、わたしにとって特別に色濃く残る出来事だが、それ以上に毎日毎日映画ともに生きているんだよなぁと実感することで、今日という日を確かに刻むことができている。

「映画みたいだな」と言える思い出を、これからもたくさん作り続けていくために、生かされているといっても過言ではないほどだ。

嬉しいことも、悲しいことも。

ぜんぶ、全部。


#映画にまつわる思い出


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