『スターウォーズ』におけるルーカス様のこと。映画狂反乱軍のこと、ディズニー帝国のこと。
またもや、わくわくする記事が…。
互いのブログで意思疎通を行っているこの状況。もはや現代の文通的な側面も併せ持っているのではないかと思う今日この頃、わたしの note でもお馴染みになってきた「サブカルと芸術に関する記録ノート」を執筆されているブロガーUtaroさん。
彼の新作記事「『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』におけるジャバ様のこと」が、また面白い。
『スターウォーズ』に関する記事、ブログ、感想、考察なんぞ、腐るほど溢れかえっている現代において、同シリーズのエピソード6『ジェダイの復讐(帰還)』に登場する、裏社会の親玉的キャラ、嫌われ者の"ジャバザハット"に焦点を当て、その哀愁と脆さに着目した者がいったい何人いるというのか。
『スターウォーズ』オリジナル三部作の最終章なんて、同シリーズの最終決戦となる"エンドア戦い"および、マスタージェダイとなった光の戦士ルーク・スカイウォーカーと、その父であり帝国へ闇落ちしたダースベイダーとの一騎打ち以外は、映画全体の尺を持たせるための荒唐無稽なアクションごっこに他ならないだろうと、そんなことを考えロクに観てこなかった子供時代の自分をぶん殴ってやりたい。そんな自分の『スターウォーズ』に向かう姿勢を正されるかのような記事。ぜひ皆さまもご一読を。
さて、そんなジャバ様の魅力はUtaroさんの記事で浴びるように感じていただくとして…
『スターウォーズ』オリジナル三部作の公開時には、まだこの世に生まれてすらいなかったわたしが、この作品群を語るためにはどうしても外すことのできない"邪悪な"、まさに"帝国"というべき巨大企業の存在がある。
無論、「ディズニー」だ。
「ディズニー」がなければ、わたしは『スターウォーズ』に出会ってすらいなかったかもしれない。
「ディズニー」がなければ、わたしは『スターウォーズ』にここまでのめり込んでいなかったかもしれない。
そして、「ディズニー」がなければ、『スターウォーズ』はまったく別の映画になっていたことは間違いない。
Utaroさんが幼少期の映画館でコロッケパンを頬張りながら観た『すたーうぉーず』を語ったならば、わたしは帝国とCG処理に支配された、『スターウォーズ』について語らなくてはならないだろう。
今回は『スターウォーズ』それ自体のお話ではなく、『スターウォーズ』というスペースオペラの金字塔、その壮大すぎる物語の創造主であるジョージルーカスと、世界中でその戦いに備え続ける反乱軍と表現すべき映画狂のファンたち、そして帝国ディズニーカンパニーについて、わたしの勝手な私見を述べていけたらと思う。
今回は、いつにも増してただの雑語りである。
お時間のある方は、ぜひ。
創造主:ジョージルーカス
この話を進める前提として、ジョージルーカスは神である、という、いささか陳腐な言い回しのそれを念頭に置いておいていただきたい。
ジョージルーカスは、神なのである。(大事なことなので2回言いました)
もちろんそれは、彼の映画監督としての偉業、『スターウォーズ』を創り出したことに対して、その評価を「神」と表現しているに他ならないのだが、もっと本質的なそれとして、我々世代においては、ジョージルーカスなんて人間は、もはやこの世に存在しているのかすらも怪しいと思ってしまう、「本当にこんな人がいるの?」という疑いをも含んだ感動を併せ持った意味で、限りなく「神の存在」とイコールなのである。
親世代に言わせてみれば、若手の映画監督がなんだか小難しい宇宙戦争映画を創ったんだってよ、くらいの認識だったようだが、『スターウォーズ』という作品がもう当たり前に存在する時代のあとで生まれた我々にとっては、まごうことなき"伝説"であり、"神"と崇めるほかない、にわかに信じがたい現象と捉えることしかできないのである。
だが奇しくも、わたしが生まれた1999年は、伝説と化していたはずの『スターウォーズ』に新たな息吹が吹き込まれた年。
そうあの物語には、「エピソード」という概念があったことが明かされ、オリジナル三部作の前日譚を描く「エピソード1」「エピソード2」「エピソード3」の公開が幕開けたときだったのだ。
残念ながら、『エピソード1:ファントムメナス』の公開時には、当たり前だが0歳のわたしに『スターウォーズ』の記憶はない。わたしのミディクロリアン数はそこまで高くはなかった。
しかし、続く『エピソード3:シスの復讐』の公開は2005年。この公開は今でもはっきりと覚えている。そして、ナタリーポートマンの美しさに少年ひろひろのハートが射止められ、もとい、この物語の創造主がジョージルーカスという人物であることを知ったのもこの時だ。
偶然にも、『エピソード3:シスの復讐』の公開前後、既に映画オタクとしてその頭角を現しつつあったわたしは、近所の図書館で毎日のようにVHSを借りては、訳も分からずハリウッド映画を観続ける日々を過ごしていた。その中でもお気に入りだった作品のひとつが、オリジナル三部作の『スターウォーズ』というわけだ。もちろん話の内容は何も理解していなかったに等しいが、2005年、小学校に入学しようかというタイミングのひろひろは、ぼーっと眺めていたオリジナル三部作と、当時まさに劇場公開をしていた宇宙映画が、どうやら同じ作品だということに気付き、その影には1人の創造主がいることを知ったのであった。
オリジナル三部作にしろ、「エピソード1」から続く新三部作にしろ、その劇場公開を生で体験したファンたちとの熱には若干の違いがあると思うが、子どもながらに『スターウォーズ』という世界の、その物語の構造が明らかになった瞬間の、あの感動はわたしの中でかなり大きなものであった。
反乱軍:映画狂
『スターウォーズ』世界の構造を知ってしまったあとの、わたしの成長(?)は我ながら凄まじいものだった。
Utaroさんとのコメントでもやり取りさせていただいた通り、創造主の源流ともいうべきデビュー作の『THX 1138』に辿り着き、ルーカスの出世作となった『アメリカングラフィティ』は、下手すると『スターウォーズ』より繰り返し観て聴いた、映画とそのサントラである。
だがより一層その興味を惹かれたのは、『スターウォーズ』という作品を取り巻く、映画狂の存在だ。興味のない者たちからすれば、なんてくだらない、死ぬほどどうでもいいことと思われてしまうかもしれないが、『スターウォーズ』の物語には、「カノン」と「レジェンズ」という2つの世界があることを伝えておきたい。
「カノン」とはその名の通り、「正史」と呼ばれる作品のことで、つまりは創造主ジョージルーカスが創り上げた映画オリジナル三部作を構成する、いわば"公式的"な世界観のことである。無論わたしの誕生年にはじまった「エピソード1~3」もカノンであり、昨今公開されている劇場映画、ドラマ、アニメシリーズ等も、すべてオリジナル三部作を基盤として、その整合性が取れたカノン作品群だ。
一方「レジェンズ」とは、別名:拡張世界とも表現され、上記の映画やアニメシリーズを除いたフィクションストーリー全般のことを指している。主には小説やアメコミで描かれた『スターウォーズ』の世界、つまり熱狂的なファンによる"同人誌"的な作品が、この「レジェンズ」枠に当たるわけで、我々はこの「カノン」と「レジェンズ」の考察に夢中ということなのだ。そして興味深いのは、「レジェンズ」はルーカスフィルムが公認している非正史作品である、ということだ。
オリジナル三部作とは整合性が取れないため、あくまで非正史だが、作品としては面白いから公認する、という。なんとも面白い試みだとは思わないだろうか。
ここから何が分かるかというと、『スターウォーズ』は創造主の手を離れ、映画狂によって独自の新解釈が続々と生まれた、ということなのである。
面白い作品は、必ず二次創作が生まれる、と、カルチャー好きの間では定説のように語られているが、もはやこれは二次創作の域を超え、創造主が公認するという、まさに作品の"拡張"が行われているのである。
彼らの熱意は、映画に登場する反乱軍さながらに、同じ志を持った者たちで、各地域それぞれの組織を作り、『スターウォーズ』世界の一員として参戦していくのである。少年ひろひろは、まんまとその面白さに取り込まれ、夏休みの読書感想文そっちのけで、「レジェンズ」の小説やアメコミを読み漁り、またファンたちの会合にハマったというわけだ。
しかし、この物語はそんな微笑ましい終わりではなかった。
映画狂を反乱軍と表現したのは他でもない。まさに反乱すべき帝国の影が遥か昔より近づいてきていたのだ。
帝国:ディズニー
2014年4月25日、ルーカスフィルムは新たに公開されるシークエル・トリロジー(エピソード7『フォースの覚醒』からはじめる三部作)に備え、拡張世界(レジェンズ)の作品はこれ以上展開しないことを発表した。
なんということだろうか。
これほどまでに、興奮と失望の共存した感情が他にあっただろうか。
『スターウォーズ』のカノンがまた始まる!
しかし同時に、レジェンズはこれ以上生まれない、と。
このときの胸のざわめきは、結果として『エピソード7:フォースの覚醒』から続く、最新三部作(シークエル・トリロジ―)の決して良いとは言えない評価に直結してしまったため、個人的にはあまり望ましくない決断だったのではないかと、今だに頭を悩ませることではあるのだが……
兎にも角にも、この『スターウォーズ』の世界に、大きな、大きな、あまりに大きすぎる影響を与えたのが「ディズニー」である。
だがこれは決して突然やってきたものではない。オリジナル三部作の頃から「ディズニー」の存在が皆無だったかと問われれば、それは否である。
『スターウォーズ』で新たに開発されたCGというのは、のちのピクサーアニメーションスタジオに繋がるわけで、制作スタッフには多くのディズニー関係者が携わっていたことも知られている。
わたしの大好きなディズニーランドには、『スターウォーズ』を題材にした「スターツアーズ」という名アトラクションもあるように、その衝撃的な映画公開当初から、『スターウォーズ』と「ディズニー」は切っても切れない関係性なのである。
しかしそんな含みのある言い方をしながらも、わたしはディズニーに感謝しなくてはならない。
わたしが『スターウォーズ』の世界にのめり込んだきっかけは、まさしく上述のアトラクション。ディズニーランドにあった「スターツアーズ」なのである。
物心ついた頃から、映画は知っていた。
しかし『スターウォーズ』の世界を、まさしく拡張してくれたのは、ディズニーの「スターツアーズ」なのである。
いま現在の「スターツアーズ」は、2014年のその年、ディズニーがルーカスフィルムを完全買収し、「レジェンズ」の終わりが告げられたときに大幅リニューアルが加えられたのちの「スターツアーズ:ザ アドベンチャーズ コンティニュー」となっているわけだが、リニューアル前の旧スターツアーズは、今回Utaroさんも記事で取り上げた「エピソード6:ジェダイの復讐(帰還)」のその後を描く「正史」として確かに存在していた。
その物語の内容まで記述するとあまりに長くなってしまうため、今回は泣く泣く割愛するが、要するに何が言いたいかというと、旧スターツアーズの洗練された物語が、今は「レジェンズ」扱いとして、いわば「無かったもの」にされ、『フォースの覚醒』から始まったエピソード7~9のために、これまでに築き上げられた『スターウォーズ』は、「カノン」と「レジェンズ」の分断を余儀なくされる形で新章を迎えてしまった、というわけなのである。
無論悲しいことばかりではなく、以降ディズニーが創る物語がすべて「カノン」となったことで、『スターウォーズ』の世界に明確なルールができた。アメリカ本国では『スターウォーズ』の世界をそのまま再現した「ギャラクシーズエッジ」と呼ばれるテーマエリアがディズニーランド内にオープンし、それまで蚊帳の外だったファンたちが、事実上『スターウォーズ』の物語に「正史」として入り込むことが可能になった。
本筋となる映画三部作の評価は一旦置いといて、ディズニーという潤沢な資金をもとに製作された「正史」としてのスピンオフ作品、ドラマシリーズ、ゲームシリーズは、オリジナル三部作を愛する者たちによって文句の付けようがない傑作に仕上がっているものばかりだ。
しかし、しかしである。
ディズニーをどうしても「帝国」と表現せざるを得ない理由は、やはりその"独裁感"にある。
Utaroさんがブログの中で記した通り、『スターウォーズ』世界のその何ともいえない哀愁は、作品の中でも幾度となく表現されるように、その不自由さ、ひっ迫さにあると思い至ったのだ。レイア姫に首輪が付けられジャバ様の飼い犬かのごとく拘束されるその屈辱感、カーボン凍結され瀕死状態でオブジェとして飾られてしまうハン・ソロの悲痛な運命。その制約下と創意工夫の中で滲み出てくる冒険活劇こそが『スターウォーズ』の魅力であるというのに、今やディズニー帝国の力によって、画面の中では好き放題、画面の外では縛られ放題の有り様だ。
ジェダイは万能ヒーローではないはずなのに。
フォースは現実改変の魔法ではないはずなのに。
スカイウォーカーという血にまつわる神話ではなく、教訓めいたおとぎ話のそれに変化してしまうのは、どうにも『スターウォーズ』らしくない。
わたしの愛するディズニーランドの「スターツアーズ」も、そのリニューアルを迎え、今やアトラクションの中で繰り広げられる「時系列(エピソード)」はハチャメチャ。
確かに視覚的・音質的に、表面上で語られる『スターウォーズ』の物語は格段に面白くなった。だが、かつてタトゥイーンの砂漠で、地平線に浮かぶ2つの太陽を眺めたルークの想いや、愛する者のために闇落ちしたアナキンスカイウォーカーの悲しき運命を、今の『スターウォーズ』から感じ取るのは無理がある。
熱狂的なファンによる「拡張世界」を野放しにするのが正しいとは言わない。
しかし、そんな"派生した物語"から『スターウォーズ』の世界にのめり込む少年少女も、少なからず存在していたはずなのだ。
帝国ディズニーは、より画一化された"綺麗な"世界の構築を目指しているのだろうが、結果として『スターウォーズ』の新たなファンというのは、減少の一途を辿っている気がしてならない。
『スターウォーズ』におけるルーカス様のこと。映画狂反乱軍のこと、ディズニー帝国のことを見ていると、観客は意外と、その本質を見抜いているし、正直な評価を下すよなぁとしみじみ感じてしまう。
Utaroさんの想いを知る由はないが、デューン・シーを舞台にしたジャバ様のシーン以降はもう観なくてもいい、と表現したその裏にも、昨今の"綺麗な"『スターウォーズ』におけるある種の疲れが見え隠れしているのではないかと考えてしまった。
聞けば、このあと控える『スターウォーズ』正史の続きは、『エピソード1:ファントムメナス』の100年前、ダークサイドの誕生を描くドラマ『アコライト』にはじまり、ドラマ/アニメシリーズから生まれた新キャラクター『マンダロリアン』『アソーカ・タノ』のスピンオフ映画、そして『エピソード10~12』の新たな三部作などを予定しているようだ。
ディズニーが『スターウォーズ』を金稼ぎの駒として作品を無下に扱っている…なんてことはこれっぽっちも思わないが、かつてのVHSで観た『スターウォーズ』の感動をもう一度。映画狂反乱軍の大活躍と、ディズニー帝国の底力による圧倒的な化学反応を、わたしは今か今かと楽しみにしていることは、紛れもない事実なのである。
*追記*
文中、泣く泣く割愛したアトラクション「スターツアーズ」の話をポッドキャストで話しました。
お耳がお暇な方、よかったらお聴きください。