シンガポール日本人墓地
ヨコハマに外国人墓地があるように、海外のあちこちにも日本人墓地というものがある。古くから日本人が住んでいたシンガポールにも、街から離れた場所にひっそりと日本人墓地がある…
少年時代、親の仕事の関係でシンガポールに住んでいて、かの地の日本人学校に通っていた。
海外の学校ならではの行事もあり、その一つが年に一回(だったと思う)の日本人墓地清掃だった。
これまでなんとなく全校行事だと思っていたが、よく考えてみると当時のシンガポール日本人学校はかなり多くの生徒がいたので、全生徒がそれほど広くない墓地に行くことは不可能だ。もしかしたら小学校高学年だけが、学年ごとに時期をずらして行ったのかもしれない。
スクールバスで、普段めったに行かないようなシンガポールの奥まった場所にある墓地に行くのは、ちょっとした遠足気分だった。渡されたカマやハサミで灌木や背の高い草を切り、小さな草は手で引っこ抜き、お墓に水をあげたりして整えた。墓地の周りには人家はほとんどなく、森に囲まれていたので昼間でも薄暗かった記憶がある。草むらからいきなり大きなカエルが出てきて驚かされたこともあった。
自分のご先祖様が眠っている墓の掃除をするわけではないから、面倒くさいなあ、と思ったこともあったかもしれないが、おそらくこの墓地の成り立ち、といったことは先生が教えてくれたはずなので、小さくて名前もないからゆきさんの墓碑を見ると、小学生ながらもその苦しい生涯をうっすらと感じることができたし、軍人の威厳ある大きな墓を見ると、かっこいいなあ(今はもう少し事情が分かっているので感心するだけではないけど)、と思ったりしていた。
からゆきさん、というのは明治時代以降に海を渡った娼妓(芸者)だが、貧しい家の娘さんが身売りされたりしたケースが多かったようで、財を成した人もいたが、その多くが貧困から抜け出せずに、日本に帰ることもかなわず外国で病死したケースが多かったという。
シンガポールには1984年まで住んでいたので、あの時からもう30年以上経っている。これまでシンガポールには何度も旅行で訪れる機会があったが、観光地でもない日本人墓地を再訪しようといった気持ちは起きなかった。
ところが2019年にシンガポールを訪れる機会があり、この時は日本人墓地に行ってみたいと、強く思った。
時間があったから、とか、ノスタルジーに浸りたかった、という単純な理由かもしれないが、私は20代半ばで日本を出て外国暮らしを始め、現在に至っている。
おそらく人生の半ばを過ぎてしまった自分の人生。どうやってゴールを迎えるのか(ヒトの場合、ゴールは死ぬ、ということだけど)ということをチラチラと考えるようになってきた。このままいけば、日本以外の国で人生を終える、ということが徐々に現実味を帯びてきている。
お墓とか死後の世界というのには全く興味がない私だが、海外で人生を終えた人びとに対する共感は年々強くなってきているのかもしれないし、だからこそ、その「かたち」である日本人墓地に行きたい、と思ったのだろうか。
それにしても、今ではそこに葬られる日本人はいないだろうし、30年も前の話である。開発するとなれば一気呵成にやってしまうシンガポールのことだ、まだ存在しているのだろうか。
インターネットで調べてみると、「日本人墓地公園」という名称で維持管理されているということなので、行ってみることにした。
シンガポール日本人墓地は、市街地の北東に位置している。公共交通機関が発達しているシンガポールだから、グーグルマップを使えば、地下鉄とバスを乗り継いでそれほど難しくなく目的地に行けそうだ。
それでも、所要時間は1時間ほどだから、シンガポールの基準でいえば遠い距離、という方だ。
まずはMRT(地下鉄)に乗って、郊外にあるメガ住宅地まで行く。MRTは市街地を抜けると地上に出て、高架線を走るようになる。延々と公団住宅のアパートが並ぶのは、まさにシンガポールの郊外風景だ。
MRTの駅を降り、乗り継ぎのバス停を探すが、この駅は非常に大きなジャンクションになっているので、バスインターチェンジもかなり広い。
同じ場所を行ったり来たりしたが、正しいバス停を探し当てた。ほどなく2階建てのバスがやって来たので乗車し、2階に上がって高い視点から車窓を眺める。
通勤時間を過ぎた住宅地を走るバスはがらがらで、乗客はほとんどいない。だだっ広い道路の両側は、同じようなデザインのアパートが立ち並び、時折工場の建屋も見える。
昔はこの辺はまだジャングルがうっそうと道路の両側まで迫っていて、その中にマレー風の家が集まったカンポン(村)がぽつぽつある、という記憶がある。木にさえぎられて昼でも薄暗かったり、そのジャングルから突然何かの動物が出てきてもおかしくない雰囲気があり、車の中からでもちょっと薄気味悪かった。ときどき激しいスコールと雷のため、大きな木が倒れて道をふさぎ、交通渋滞が発生した、なんてこともちょくちょくあったっけ。
それが今ではかなり造成されてしまい、ジャングルは姿を消した。辺りはひたすら明るくて、強い日差しが射している。
それでも、駅を離れてしばらくすると高層アパートが徐々に姿を消し、一軒家が増えてくる。たまに、ショップハウスという、一階が店舗で二階が住居という、昔ながらの長屋が残っていたりする。
降りるべきバス停が近づいたのでバスを降り、グーグルマップの道順に従って住宅地の中をしばらく歩く。きれいな一軒家が立ち並び、明るく、静かだ。世界中の閑静な住宅街と同じ雰囲気。
10分ほど歩くと、日本人墓地公園のゲートが。あっけなくたどり着いた。
あれ、こんな感じだったかなあ?というのが第一印象。そりゃあ、30年以上も前のことだから、変わっていて当たり前か。
入ってすぐのところに、沿革を記した看板が立っている。
シンガポールは、アジアの中継基地だったので、明治時代に日本が開国した後は、日本人商人もやって来て、独自のコミュニティを作っていたようだ。
「からゆきさん」も大勢やって来て、やはり社会の下層にあった彼女たちは病気になったりして亡くなったケースが多かったのだろう。彼女たちの墓碑は、すぐ草に埋もれてしまう様な小ささで、名前も彫られていないか、あったとしてももう判読不可能になっていて、もの悲しさを感じさせる。
昔はもっとうっそうとしていて、昼でも薄暗く、草もぼうぼう茂っていたはずだが、現在では芝生もきれいに整備されていて、ブーゲンビリアをはじめとした花もたくさん植えられていてとても明るい印象。
空は晴れ渡っていて、湿気を伴った生ぬるい風が穏やかに吹いている。ヤシとブーゲンビリアに和風の墓石が並んでいる様は、ああ、海外の日本墓地なんだなあ、と思わされる。
でもしょせんは墓地だから、いくら花盛りでも、南国の陽がさんさんと降り注いでいても、やはり物悲しい雰囲気はぬぐえない。
観光でやって来る人などはほとんどいないようで、しばらくしてやって来た西洋人以外は誰もおらず、独りで墓地を歩き回りながら先人に思いを向けた。
ロシアから日本に帰る途次、インド洋上で客死した二葉亭四迷の記念碑。彼はシンガポールで火葬されて、遺骨は日本に戻ったとのこと。ここには遺骨の一部でも残されているのだろうか。
二葉亭四迷は、近代日本と外国とのはざまに立ち、それこそ三度も四度も「迷った」文人であったようだ。私も外国で、毎日迷いふらつきながらそれでもまっとうに生きていきたい、とは思っているので、その生きざまは何か惹かれるものがある。
祖国とは何か、そこを離れて異国で生活すること、自分のアイデンティティ、
考えることはいっぱいあるなあ…。