最後の一葉
冬のシドニー。オーストラリアのネイティブツリーのほとんどはユーカリに代表されるような常緑樹なので、公園や街路樹は冬でも緑が残っている。
それでもヨーロッパから輸入されてきた木もあり、少し前までは鮮やかに紅葉した葉も今ではほとんど落ちてしまい、わずかに残った葉が寂しげに風に揺られ、枝にかじりついている。
そんな情景を見ると必ず思い出すのが、O.ヘンリーの名作、「最後の一葉」だ。
いや、この小説というより、この小説にまつわる思い出だ。
だって、この小説を精読したのはもうかなり前の話だから、今では粗筋しか覚えていないから。
私が最初にこの短編に触れたのは、40年近く前のことだ。その場所は、この小説に書かれた現象が起こりえない常夏の国だったけれども…。
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シンガポール日本人学校小学部で5・6年の担任を受け持った先生は、もともと国語が専門で、演劇にも力を入れていたので朗読がとても上手だった。
通りのいい声を駆使し、思い入れたっぷりに物語を語る先生の朗読は、あまり勉強が好きではない生徒でも思わず心をつかまれて聞き入ってしまう程だった。たぶん大人が聞いていてもほれぼれとしたと思う。
つっかえつっかえ教科書を朗読する私たちをちょっと小馬鹿にし、
「きみたちは本当に下手くそだなあ~、先生が手本を見せよう。もし先生が途中でつっかえたら、文明堂のどら焼きをみんなにおごってやるよ!」と豪語し、朗読を始めたことがあった。
私たちは、つまずいてほしいような、それもちょっと困るような気持ちでかたずをのんで先生の朗読を聞いていた。いつも通り堂に入った朗読だったが、その時に限ってあと少し、という所で見事につかえてしまい、先生は文字通り地団駄を踏み、教室は爆笑で包まれた。
(先生の名誉にかけて証言しますが、後日きっちりどら焼きを人数分振る舞ってくれたのには今でも感謝しています。あれ、海外だったから結構値が張ったんではないかなあ…。)
先生は、教科書に載っていないような作品も朗読してくれて、正直あまり面白くない教科書の問題を解いているより間違いなく楽しかったから、私たちもけっこうリクエストをしていたと思う。
例えば、小泉八雲の「耳なし芳一」などの怪談系は先生の真骨頂だった。聞いていると、くそ暑いシンガポールの熱気が一気に氷点下近くまで下がり、首筋がひやひやするような気がして、その晩は寝るのが怖くなるくらいの迫力だった(子供を怖がらせてどうする)。
先生は私たちに日記を書かせることにも熱心で、朝提出した日記には必ず目を通し、その日の授業が終わる時までには赤ペンでコメントを書いて返してくれた。
強制ではなかったので、クラスの全員が毎日書いていたわけではないが、それにしてもかなりな手間暇である。今になって考えると、いつ時間を見つけていたのだろう?そういえば、私たちが小テストや、問題集をやっているときに何冊も積み上げられた日記の山を取り崩して読んでいたような。
私はその前からも断続的に日記は書いていたが、先生からのコメントを読むのが楽しみで、それがモチベーションとなり結局2年間毎日日記を書いて提出した。偉そうなことをしたり顔で書いてかなり先生を怒らせてしまったこともあって、そんな時は次の日の日記を提出するのが恐ろしかったが、全体的に見れば先生もこまっしゃくれた生徒の背伸びした日記を、「やれやれ...」と苦笑しながら読んでくれていたのかなあ、と今では思う。
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ある時、先生が「これはちょっと難しいかもなあ~」と言いつつ読んでくれたのが、「最後の一葉」だった。
病と、それに立ち向かう人、それを支える人、物質的に貧しいけど助け合う近所の人…。そういったものがO.ヘンリーの作品によく出るテーマだと思うが、これもそんな作品で、結末の意外さにはあっと心を打たれた。
先生は、なぜこの作品を朗読してくれたのだろう?もちろん良くできた作品だから、ということもあるだろうし、短編だから授業時間内で読み通せる、という現実的な理由もあっただろう。
でも、先生が一番伝えたかったのは、この作品に登場する老画家のような、利他の精神、ということなのではなかっただろうか。
私は、もっと小さなころから本を読むのは好きだったけれども、先生と、先生が紹介してくれた数々の本に出合わなければ、もしかしたらもっと自分勝手な本の読み方をし、それに即した人生を送っていたかもしれない。
先行きの見えない昨今、私は、自分の大事なものを犠牲にしてまで他人に何かを差し出すことができるだろうか?その行為が自分を傷つけるとしても?
こんなことを考えながら毎日を送っている。
自分の勇気が試されているとき、なのかもしれない。