「廓然無聖」「不識」の公案
原文は『雪竇頌古(せっちょうじゅこ)』の第一則です。『碧巌録』等とは異る部分がありますが、意味は同じです。
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挙。
公案です。
梁武帝問達磨大師。「如何是聖諦第一義」
達磨云「廓然無聖」
帝云「対朕者誰」
達磨云「不識」
帝不契。
梁の武帝(464~549)が達磨大師にたずねた。「仏の教えの第一義とはどのようなものですか」
達磨は言った。「廓然無聖(かくねんむしょう)」
武帝「朕に対している者は誰ですか」
達磨「知らん」
武帝は滞在の契約をしなかった。
遂渡江至魏。
武帝挙問志公。
志公云「陛下還識此人否」
帝云「不識」
志公云「此是観音大士、伝仏心印」
帝悔、遂遣使取。
志公云「莫道陛下発使去取、闔国人去、佗亦不回」
達磨はその結果(追い払われて、とも)、長江を渡り魏にいたった。
武帝は志公こと宝誌和尚(425?~514)を呼んでたずねた。
志公「陛下は、この人をご存じですか」
帝「知らん」
志公「この人は観音菩薩の化身で、仏の心印(悟り)を伝えに来たのです」
帝は後悔して、遣いを送り連れ戻そうとした。
宝誌和尚「陛下、それを言ってはなりません。国から締め出し、人は去りました。彼は戻りません」
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なんとも要領を得ない話です。
達磨大師は、仏の教えの第一義を「廓然無聖」と告げています。
「心がからっとして何事にも執着しないこと」と一般には意訳されています。「無聖」は、「聖なることなどない」の意味です。悟りを得ると、何か(誰か)を聖なる物としてあがめるという執着もなくなるのです。
梁の武帝と達磨大師の対話はこれ以外にも伝わっています。
『景徳伝灯録』巻三にはこうあります。
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帝問曰。「朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功徳」
師曰「並無功徳」
帝曰「何以無功徳」
師曰「此但人天小果有漏之因。如影隨形雖有非實」
帝はたずねた。「朕は即位以来、寺を造り、経を写し、僧を得度させること数え切れない。どんな功徳があるだろう」
達磨「どれも功徳はない」
帝「どうして功徳がないのか」
達磨「これはただ人や天となる小果しかなく、煩悩の元である。影が物にくっついているようなもので、ありはするが実の功徳はない」
帝曰「如何是眞功徳」
答曰「淨智妙圓、體自空寂。如是功徳不以世求」
帝又問「如何是聖諦第一義」
師曰「廓然無聖」
帝曰「對朕者誰」
師曰「不識」
帝不領悟。師知機不契。
帝「真の功徳とはどのようなものか」
答「浄い智あってすぐれて円明であり、おのずと空寂を体現している。このような功徳は世俗には求られない」
帝はまた問うた。「聖諦の第一義とはどういうものか」
達磨「廓然無聖」
帝「朕に対する者は誰か」
師曰「知らん」
帝は納得がいかず、達磨大師は機を知って契約しなかった。
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仏教の興隆と保護をし、自ら『涅槃経』の講義までしたという武帝が「これらの功績にはどんな功徳があるか」たずねたら、達磨大師が「無功徳」と答えたという話です。これもまた、自分のなしたことに執着し、褒めてもらおおうという下心が見えてしまったために、煩悩の元として「無功徳」と断じられたのでしょう。
徹底した無執着。
武帝「朕に対している者は誰ですか」
達磨「知らん」
普通なら「私は南天竺にある香至国の第三王子で、出家して般若多羅に学んだ者だ」などと答えるはずです。しかし、達磨大師はそういった過去には無執着です。むしろ、そのような凡俗の答えをすると、武帝から過去への執着として、また聖人ぶった者として、「廓然無聖」との矛盾を激しく突っ込まれる可能性もあったのです。ですから、短く「知らん」と答えたのでしょう。
しかし、武帝はあくまでも在家の人、法論をふっかける気はなく、むしろ達磨大師に外国の風物や仏法の話を聞きたかったに違いないのです。木で鼻をくくるような返答に、対話を拒絶されたと思ったことでしょう。
達磨大師自身も、梁の王宮では居心地の悪さを感じ、去るきっかけを求めていたのかもしれません。案の定、武帝からは追い出されてしまいます。なお、「契」を「契約」ととったのは「師知機不契」からです。滞在の契約の意味です。
武帝が呼んだ宝誌和尚。
日本では、顔が縦に割れた重要文化財の木造で有名です。
中から出ているのは観音菩薩だそうです。数々の予言や神通力を発揮したという梁の有名人です。連れ戻すのを止めたのは、さすがに外交問題になってはいけないとの判断でしょう。現実的で、適切です。
このあと、達磨大師は崇山少林寺の近くの洞窟に九年間こもります。
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