唯識についての私見
仏教には「唯識哲学」と呼ばれる思想があります。
その完成形が何かのお経に書いてある思想ではなく、のちに仏教を育てた高僧方が思索によって築き上げてきた物の考え方です。
これは、下手に解釈すると「この世は夢・幻だ」という邪見に陥ってしまいます。
唯識とは「個々人にとっての自分が、ただ識によってのみ成り立っている」という考え方です。
私はこの識を「インプット」と解釈しています。
『般若心経』でよく知られるように、仏教ではまず五種の身体感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、そして意識によって自分が成り立って言います。
『般若心経』では、インプットを受ける感覚器官「眼・耳・鼻・舌・身・意」なんてないよ、何にもないよ、と考えたら苦もなくなるよ、と説いています。つまり、我々は日常においてこの六つのインプットを受けて精神活動をしているのです。
「眼・耳・鼻・舌・身まではわかった。意識って何だ? インプットなのか?」とおっしゃるかもしれません。
では、好きな動物を思い浮かべてください。犬でも猫でも構いません。
その動物を心の中で撫でてみて下さい。……可愛いですね。
臭いはしますか。膝に乗ってきたりすりすりしてきますか?
はい、そこまで。
あなたの心は安らぎに満ちたでしょう。
でも、そのイメージはどこから来ましたか?
記憶と経験と想像力から今の自分にインプットされてきましたね。
それが「意識」なのです。
三十年くらい前の仏教学では「意識は前五識を統合する」という言い方がなされました。これは誤りです。意識は識として眼・耳・鼻・舌・身と同等なインプットなのです。
唯識哲学では、さらに末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識、さらにその奥底に阿頼耶識を想定していると説明されます。
末那識とは、「寝てもさめても自分に執着し続ける心」「自我があると錯覚する源」「阿頼耶識を自我と誤認する心作用」であるといわれています。
末那識(まなしき)はパーリ語でManas-vijnanaです。
サンスクリット語では、manas「心」の中性・単数・主格がmanoです。
意識はmano-vijñānaです。
……ん? 同じなんじゃね?
末那識は、別名を思量識と言います。
推量をしてしまうのが末那識の本質です。
道に縄が落ちている。
夜道を歩いていて、それが蛇に見える。
あれおそろしや、噛まれたら痛いぞ、毒蛇なら熱が出てぶるぶる震えることになるぞ……
人の心は、一瞬でそこまで推量してしまいます。
これが末那識の働きです。
たとえ蛇に噛まれたことが一度もなくても、猛烈な痛みまで想像してしまうのが、末那識(思量識)なのです。
しかし、縄を見た時感じた「蛇だ!」という認識(誤認)はどこから出てきたのでしょう。
それが阿頼耶識(あらやしき)です。
私は阿頼耶識を「記憶のデータベース」として理解しています。
阿頼耶識はサンスクリット語のālaya-vijñānaの訳で、「蔵識」とも訳されます。このālayaは蔵という意味なのです。
記憶には、エピソード記憶と意味記憶と手続き記憶があります。
「エピソード記憶」……いわゆる経験。こうふるまえばウケた、など。
「意味記憶」……名称・呼称や形状・色などの記憶。各文化に依存する。
「手続き記憶」…… 反復によって獲得された記憶。自転車に乗る方法や楽器を弾く方法、武術の動きなど。ただし反復を怠ると下手になったり忘れることもある。
阿頼耶識には、この三種類の記憶がごちゃまぜになって放り込まれています。ハードディスクの中に、プログラムとデータとプリンターなどのドライバーが記録されているのと同じです。
この阿頼耶識については神秘化が進んで「宇宙万有の展開の根源」「三世を貫く永遠の生命」「人間の存在の根底に流れる意識のこと」などという説明がなされたりしていますが、そこまで高尚な物ではないでしょう。
ただ、人類に共通な、いわばファームウェア的な思考様式というものがあって、それが無明とされたのではないかと私は考えています。
我々は以下に述べる様々なバイアス(思考の無意識の偏向)にとらわれています。
「公正世界バイアス」……正義は最終的には報われ、悪は罰せられる。
努力は必ず報われる。世界は合理的で完璧ある。
「求理バイアス※」……何にでも理由を求めてしまう、理由があると想定してしまう。生れる理由、死ぬ理由を求めてしまう。
「刷り込みバイアス※」……最初に触れた何かが素晴しいもの、真実に感じられる。
「自己信頼バイアス※」……自分には何物をも理解しうる。時間をかけて説明されれば何でも理解できる。
「万能バイアス※」……世界は自分の願うとおりに動くべきだ。
「同一性バイアス※」……他人の思考は自分と同じ。嗜好も同じ。自分にできることは他人にもできる、自分にわかることは他人にもわかる。
「有意義バイアス※」……我々は生かされている、生きている値打ちがあるから生きている。その裏に何かの超越的力や思し召しや理由がある。
「平等有能バイアス※」……人はみな有能で、言われたことができて、失敗しない。
「パラダイムバイアス」……現行のパラダイムが永遠不変の真実である。それを否定する者は異常者だ。
※今命名しました。
お釈迦さんの教えは、簡単に言うと「物事をありのままに見なさい(如実知見)」ということです。人間には生れつき思い込みや小理屈をつけてしまう働き(無明)が備わっていて、如実知見を妨げています。それが数々の苦悩を生み出すのです。お釈迦さんは、無明を見極めて払いましょう、と教えられたのです。
我々は、ファームウェアとして生得的に備え付けられた「無明」を「如実知見」によって打破し、無明がもたらす煩悩(かくあるべきだ、そうでない現実はおかしい、という苦悩)をなくすことで、より心の平安に満ちた生き方が出来るのです。