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祖母の看取りとジャッカル富岡

 祖母が亡くなった。享年95歳、眠るように息を引き取ったことからこれ以上にない大往生であったと思う。悲しい気持ちはあったのだが、亡くなるという覚悟をする時間が長いことあったおかげで泣くことはなかった。それでも寂しくなるなという気持ちが心の大多数を占めていたことは間違いない。
 祖母が息を引き取ったのは深夜0時過ぎ。そこから医師・葬儀屋への連絡や来客のための部屋清掃、飯の買い出しなどが始まった。深夜ということもあり諸々ができない事もあったのだが、それでも、深夜から動き始めることの身体的負担や祖母が亡くなったことの心理的負担が一挙に押し寄せてきた。次になにをするべきか、終わればなにをするべきなのか、それを考えて行動するべきなのに、常に頭の隅では祖母の死がチラついている。思考も行動も纏まらずバラバラで作業にならない。重いストレスが急速に溜まっていくのを感じ、キーンと頭の中で鈍痛が広がっていく。そうするとどうなるか。逃避が始まるのである。
 僕は、急速なストレス増大を受けると、頭の中で目の前の光景とは関係のない映像を投射することがある。例えば、過酷な労働を行ったり、長時間の叱責を受けた場合などに発生する事がある。この投射は無意識に行っているので逃避と呼んでいるのだが、その日も頭の中では祖母の老衰とは何も関係のない映像が広がっていた。
 『ショートケーキにイチゴをのーせるー ついでに俺ものせられるー』
 『なんで俺もやねーんっ なんで俺もやねーんっ』
 頭の中ではこのセリフがリフレインしていた。発している人物はジャッカル富岡。上半身裸に赤いネクタイを結い、腰から足の指先までの下半身はシルエットがくっきり映える黒タイツを着用し、ウェーブのかかった七三分けに日焼け気味の浅黒い地肌と鍛えてはいないであろう小太りの体型。左手が沿えられた腰は前方後方に高速ピストン、右手はバッチグーの握りをしながら腰の動きに合わせ上下に揺らしている。字に起こすと完璧な程に不審人物なのだが、驚くことなかれ。彼こそが芸人 ジャッカル富岡、その人に他ならない。
 そんなジャッカル富岡が、頭の中で常に存在していた。祖母に線香を上げようものなら『線香立てに線香をのーせるー』と言ってくるし、来客対応をし客間へと案内しようものなら『客を客間へ案内するー』とか言ってくる。そして、全ての行動の後には『コンプリーーートッ』と言って作業が完了したことを報告してくる。何か行動を起こすたびにジャッカル富岡が出現して『なんで俺もやねーんっ』とか『コンプリーーートッ』といった彼のネタのセリフを叫んで去っていく。
 はっきり言って自分でもよくわからない。なぜジャッカル富岡なのか。ジャッカルが出てくる『ザ・ファブル』は原作・実写どちらもすごく好きな作品であることは否定しないが、なぜジャッカル富岡なのだろうか。しかも実写版で出演していた宮川大輔死が演じるジャッカル富岡。できれば、木村文乃が演じる佐藤洋子とか、山本美月が演じる清水岬のほうが出てきてほしかった。というか、これはもうジャッカル富岡が頭の中にいるというより宮川大輔が頭の中にいるのではないのだろうか。わからない、僕にはなにもわからない。
 人は身体に不足しているものがあると、無意識に接種したい欲望にかられ行動に移すという。例えば、身体にエネルギーが不足していると甘いものが無性に食べたくなるし、しょっぱいものが食べたい時にはミネラルが不足しているという。ということであれば、今頭の中にいるジャッカル富岡は『ザ・ファブル』を接種することで消えるのではないだろうか。しかも、宮川大輔が頭の中にいるということから実写版の方を。そう考えると、居ても経ってもいられなくなり、忙しい合間を縫って映画を鑑賞することにした。
 『ザ・ファブル』実写版。岡田准一が演じる佐藤明が魅せるスタイリッシュで爽快なアクションに、原作には無い大多数を相手にした大殺陣、そしてジャッカル富岡─── それらがないまぜになって名作アクション映画と仕上がっている。久しぶりに小難しい要素のない映画を観たことで、祖母が亡くなったことのストレスや身体的な負担も軽減できたような気がする。ジャッカル富岡も輝いていたことだし─── と考えたことで、一つ気がつくことがあった。過度なストレスを受けたことにより、それを解消する為なにか措置が必要になった。その措置こそが『ザ・ファブル』の映画であり、全長として現れたのがジャッカル富岡だったのだ。彼は無為に『なんで俺もやねーんっ』と叫んでいたわけではない。ストレスから身体を守るための救難信号を発していたのだ。
 と考えたところで、頭の中でジャッカル富岡が『コンプリーーートッ』と叫んだ。火葬・告別式がある月曜はもうすぐに迫っている。もうしばらくは彼が居着くことになるかもしれない。


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