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自我とは
この日記の中で出てくる人物、つまり"僕"が架空の存在であったら、今まで認めた文章たちは一体どういう意味を成すものになるのだろうか。
そう考えたキッカケは、この日記では一人称を"僕"に統一したことから起因している。実際の暮らし送っていく中で、"僕"という一人称は使用したことがない。普段の生活であれば"俺"か"自分"だし、ビジネスにおいては"私"を使っている。つまり、"僕"という一人称はここの文章以外では一切使用したことがない。故に、"僕"というものは、かなり異質な存在として僕の中に位置している。
これはどうういうことだろうかと、少し思案を巡らせてみる。3つの一人称、"俺" "私" "僕" は場面それぞれ"私生活" "ビジネス" "日記" によって住み分けがされている。俺は私生活を生き、私はビジネスを行い、僕は日記を認める。ここから考えるに、3つの自我が形成されているのだろうかと考えてみたのだが、ビジネスにおける"私"は、社会から要されて使用し、必要にかられて作り上げた張りぼての一人称であり、これを自我と呼ぶには些かお粗末に感じる。しかし、"私"は自我ではないと断定したとしても、僕の中で社会を生き抜くための歯車として機能していることは間違いない。故に、自我そのものではないにしろ自我を形成しているパーツの1つであると考えられる。
さすれば、"俺"と"僕"はどうだろうか。私生活における"俺"は、確実に自我本体だと言えるだろう。自身の意思で身体を動かす肉体的なことから、今日の昼飯の選択あから脳内で跋扈する思考と付き合う精神的なことまで、"俺"は全てを支配下に置いて"俺"をコントロールしているし、"俺"の意思で酒を飲み狂っている。故に、"俺"は自我の大部分を占める大きな存在となっている。では、なぜ"俺"の中から"僕"という存在が出てきたのだろうか。ここが、"僕"が架空の存在であったら〜と考えたスタート地点となる。
"僕"="俺"ではないのか、と考えてみる。確かに、"僕"は"俺"から分離した存在ではあるとは思うが、右の等式は成立しないのではないかと思う。それはなぜか。"俺"という自我は、めったに自身の心情を吐露しようとしない。己の思惑・思考とは向き合いつつも、それを外の世界へと解き放つことは恥ずかしいことだと考えているからである。故に、自身の中にどんどんと溜め込んでいき膨張させ、限界を向かえ破裂したことすらある。一方、"僕"は、"俺"の心情から思想、行動までの全てを軽率・軽薄に吐露しては、他人の反応を気にしつつ文章を認めている。その行動の中には、恥を感じることはせず、むしろ、恥を楽しんでいる傾向すらあり、溜め込むタイプの"俺"とは全く逆の存在である。故に、"僕"という存在は異質であり、"僕"の行動が、架空の存在ではないかという疑問を発生させた。
しかし、"僕"は架空の存在ではない。実際に、多数の文章を認めている痕跡がある。そしたら、こいつは一体何なのであろうか。もしかすると、"俺"という自我は存在せず、"僕"という自我だけが存在しているのではないのだろうか。"僕"は"俺"から分離したと考えていたが、実際は、"僕"は"俺"を作り出したのではないのだろうか。そう考えていると、酒があまり美味しく感じなくなり、半分を残してそのまま寝てしまった。