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【吉本隆明「共同幻想論」を読む】 「3,巫覡論」 対幻想の可能性とは? <ことばの森を逍遥する>

人と人とが関係する領域について考えるとき、二種類の「関係の在り方」を構造的に区別するというのが「共同幻想論」の特徴だといえます。つまり、男女(に限らないが)の性を仲立ちとする対幻想という「関係の在り方」と、共同体的・社会的な共同幻想という「関係の在り方」、この二つです。つまり、個と共同という二項対立を考えるのではなく、個・対・共同という三項対立を考えるということになります。M・ブーバーのいう「我/汝」の関係と、「我/それ」の関係という対比をちょっと思い出します。ブーバーは性的関係と社会的関係という区分けはしていませんが、「我/汝」という抜き差しならぬ直接的な関係と、他方で「我/それ」という間接的で疎遠な関係の二つを対比させているのが印象的です。

吉本がいう対幻想は、性を仲立ちとする関係なのですが、必ずしも具体的な性関係を要件としているわけではなく、つまり夫婦関係だけを指しているわけではなく、親子・兄弟・姉妹や叔父・叔母・従妹・従兄など、いわゆる親族関係全般を指しています。社会関係と親族関係の違いを、明瞭な言葉で定義することは難しいのですが、とりあえずは「他人との関係」に対して「身内の関係」というふうに表現できます。いいかえれば、対幻想の関係とは、社会的な媒介を経ないで人と人が直接的に繋がるような関係といってもいいのではないでしょうか。わたしの解釈では、純粋な友達関係などは対幻想に含めてもいいように思います。

これに対して、国家をはじめ、会社・学校・地域などなんでもいいでしょうが、ある種の社会的媒介によって人と人とが繋がるような領域が、共同幻想による関係というふうにいってよいのでしょう。このような関係の在り方は、直接的に人と人が関係するというのではないので、いったん自分を他者として客体視するような視線が介在しなければ関係が成立しないのだろうといえます。どういうことかというと、たとえば、自分がどういう位置や役割にあるかということが認識できなければ、そういう共同性の関係には入ることができないといういいかたができます。いわゆる“社会的役割を演じる”というようなことを指しています。

もちろん、会社や学校でも気の合う友達や仲間(直接的関係)がいるばあいも多いでしょうし、家族・親族だからといって仲がいいわけではなく“いやいや役割を演じている”だけというばあいもたくさんあるはずです。対幻想・共同幻想という概念は、あくまでも構造的なものあるいは本質的なものを指していますから、現実的な人と人の関係においては、この両者は交じり合っているものというほかないでしょう。

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さて吉本はこの論考のなかで、“自己幻想と共同幻想は必ず<逆立>する”というテーゼを主題としているのですが、このテーゼは“自己幻想は対幻想とは<逆立>しない”ということを同時に意味しています。人と人が関係を結ぶ地平において、いわば対幻想の関係を理想化しているといえます。かつて小林秀雄が、「自分と母親のあいだには見事な橋がかかっている」というような表現をしていましたが、条件も前提も理屈もまるで関係なくすべて承認してくれる存在として、つまり全的に無償の愛を与えてくれる存在として「母」を理想化していることばだと思います。世間の母親がみんなそうだとは、とてもいえないと思いますが、これもあくまで本質としての「母」を語るものといえます。

では逆に、社会的な関係においては、つまり個人幻想と共同幻想の関係においては、なぜ<逆立>することが必然だといえるのか、これが問題になります。社会的な関係においては“みずからの役割を演じなければならない”ということが、これを考える切り口になりそうです。“役割を演じる”ということは、社会関係およびそこにおける自分の位置を認識しているということですから、そこには自らを客体視する(他者として見る)という視線が介在していなければなりません。

この自分自身を客体視することができるという人間の能力は、他の動物と人間との基本的な違いを考えるときの大きな契機となるものといえるでしょう。この問題について、共同幻想論のなかでは、芥川龍之介の小説「歯車」を引用したのち、つぎのように述べています。

『わたしがここで「歯車」の主人公の離魂症的な体験の描写をとりあげたのは、べつにこの現象が異常だとかんがえたからでもなければ、物珍しい心的な現象だとかんがえたからでもない。この種の個人と個人との心的な相互規定性では、一方の個人がじぶんにとってじぶんを<他者>におしやることによって他方の個人と関係づけられる点に本質があることを指摘したかったからにほかならない。一般にわたしたちが個人として、他の個人を<知っている>というとき、わたしたちはまず自身を<他者>とすることによって、はじめて他の個人に<知られる>という水準を獲得する。だからこそ他の個人は、「歯車」の主人公にたいする「K君の夫人」や「隻脚の翻訳家」のように、まったく恣意的に「第二の僕」を錯覚することができるのだし、また、逆に主人公の方では、じっさいに「帝劇の廊下」や「銀座の或煙草屋」に行ったかもしれないのに、恣意的にじぶんの記憶からじぶんの行為を消し去ることができるのである。一方の個人が他方の個人にとってよそよそしい<他者>ではなく、勝手に消し去ることができない総合的存在としてあらわれる心的な相互規定性は、一対の男女の<性>的関係にもとづいてあらわれる対幻想においてだけである。』

芥川は、自分の分身(ドッペルゲンガー)を知人が見たという現象にこだわって、それは自分が死の領域に近づいているからなのだというふうに解釈しています。これについて吉本は、こういいます。自分の分身(ドッペルゲンガー)を知人が見たという現象は、とくに珍しいことでも不思議なことでもなく、本人が意味ありげに解釈しているにすぎず、知人が別の人物と見間違えたのか、あるいは実際は自分がそこに居たのにそれを(故意に)忘れたのか、どうにでも説明のつくことだというのです。ただ、芥川が死の近くにいたということだけが、この小説では重要だというのです。

問題は、自分の分身がどこかを彷徨い歩いていたというような超自然的なことにあるのではなく、人間は社会関係(共同幻想)のなかにあるときは、その本性として自らを客体視するという構造をもっているところにあるというのです。つまり、社会のなかで「私はこれこれこういうものだ」というふうに言おうとすると、たとえば職業、役職、出身地、学歴・・・その他さまざまな属性によって、自分を客観的なフィールドに位置付けることを要求されます。ビジネスのような社会関係において名刺・肩書などの果たす役割が重要なのは、こういう構造に裏打ちされるからでしょう。共同幻想(社会関係)のフィールドでは、自分という存在は、社会的関係のなかのひとつの座標として現れます。これはとりもなおさず、周囲が自分を見るよそよそしい視線を自分が内面化すること、つまり自分自身をよそよそしいものとして客体視するということを含んでいます。

一方で「勝手に消し去ることができない総合的存在」と吉本が呼んでいるものは、対幻想の関係に代表されるような直接的な人間関係のことです。恋愛をするのに、名刺や肩書は必要ありません。見合いの条件よろしく職業や学歴にこだわるようなことは、本来的な対幻想(恋愛)の成立とは関係のないことです。もちろん、実際の個々のケースにおいては、社会関係のようなよそよそしい性関係もありうるわけですし、恋愛関係のような濃密な社会関係もありえます。「対」と「共同」の区別は理念として成立するものであって、実際の関係においては両者は混じり合っていて、無段階ともいえるグラデーションを形成しているはずです。

理論を構築するにあたって重要なのは、ケースバイケースな個々の現実ではなく、抽象された構造(ゲシュタルト)ということになるでしょう。個々の現実ということを問題にするならば、おそらく100人いれば100通りの現実があり、1000人いれば1000通りの現実があるという話になってしまうからです。構造(ゲシュタルト)として捉えるということは、いわば型として捉えることになりますから、個々の現実にピタリと適合するというようなことはないはずです。けれども、そうであったからといって、いやむしろ、そうであるからこそ、構造(ゲシュタルト)を考えることは、普遍的に考えるための地平を開くことだというわけです。

もし対幻想の本質をその理想型として考えるとするなら、いわゆるもっともホットな状態の恋愛関係、他者としてのよそよそしさや抵抗感をもたない関係、当事者が一心同体だと感じるような関係というものを想定することができるでしょう。それは現実には一時的あるは限定的にしか成り立たないものだとしても、夫婦・親子・兄弟のような心的関係は、無媒介で直接的な壁のない関係を基礎としていると、そう吉本はみなしています。

それに対して、共同幻想の地平というのは、自分が自分を他者のように認識することではじめて、他者との関係を構築できるような地平を意味しています。それは人と人が関係する地平としては、本来的にとてもよそよそしいものであらざるをえないはずです。けれども、ひとたび共同体がその共同性を外的に疎外するようになってしまうと、人はその疎遠な共同性のなかに、好むと好まざるとにかかわらず投げ入れられるしかなく、それに強いられることでしか生きられないようになってしまいます。本来は人と人との直接的な関係性に起因したはずの幻想の共同性が、いつしか強固な外的現実性として立ち現れるようになり、人はその疎遠な共同幻想のなかでしか生きられなくなってしまう、そういうことだと思います。

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さて、この共同幻想が、いったいどういうふうにして発生してきたのか、歴史的な軸で考えようとすると、どうしても古代よりもはるか以前の社会を考える必要があります。ただ、古代以前の社会については、文字による記録が残っていませんから、実証的な探究はほぼ不可能であって、とりあえずは人類学や民俗学などの領野における知見を参照するほか術はありません。

『タイラーやフレーザーの原始心性の考察に対して批判的であったレギ・ブリュルは、「未開社会の思惟」のなかで原始人の知覚についてつぎのようにのべている。
<原始人は我々と同じ眼でものを見ている。しかし彼等は同じ精神で知覚するのではない。彼等の知覚は、社会起原の表象の厚さの種々の層で包まれた中核に依って構成されていると云ってもよかろう。尚ほ、この比喩は可なり拙劣で、さして正確ではない。何となれば原始人は、その中核と外包層との区別は少しも知らないのだから。>』

まず原始人について考えるという場合、わたしたちはどんなスタンスでものを考えればいいのかが問題になります。わたしたちは、ついつい現在のわたしたちの感じ方や理解の仕方などを基準として、過去の遺物や痕跡などを手がかりとしながら、想像の触手を過去のほうへと伸ばしてゆき、過去の人たちの心的状態を想い描こうとします。

けれども、わたしたちと原始人とでは、知覚の物理的性質は同じだろうと考えて大過ないでしょうけれど、知覚したものの受け取り方(認識)はずいぶん違うだろうと想定すべきだと思われます。もちろん、知覚と認識をクリアーに分けることは、事実にはそぐわないだろうと思われます。認識が文化的なものに規定されるのと同様に、知覚も文化的なものに規定されるというふうに厳密には考えるべきでしょう。それは、わたしたちの身体の形状(身長等)や器官(目や耳等)が、長い時間のうちには変化することでもわかります。つまり、わたしたちと原始人とでは、見ている世界そのものがちがうと考えるのが妥当です。

そこで、遠い昔のことを知るのは困難だけれど、いまの同時代でもそれが類推できる方途があるという画期的な見解が注目されます。個体発生は系統発生を繰り返すというエルンスト・ヘッケルのテーゼです。人間の胎児は子宮のなかで、魚類から両生類・爬虫類そして哺乳類へという生物進化の過程を繰り返すというドラマチックな仮説です。もしほんとうに系統発生と個体発生がパラレルな関係にあるのなら、人間の個体の揺籃期(胎児~乳幼児)の特徴を詳しく観察することで、それを比喩として人類史の揺籃期を考えることができることになります。

生物学においてダーウィニズムを強烈に補強したこの見解は、文明史の観点からしても、歴史時代以前の人類史を知ることがとても困難であるという課題に、強烈な光を投げかけた考え方であろうと思われます。しかし吉本は冷静に、このように指摘しています。

『しかし、原始時代も幼児段階も人間の存在(史)にとって二度とかえらないように、ほんとうはどんな類比をもってしてもその構造をうかがうことはできないものである。』

生物学の領域のことはよくわかりませんが、すくなくとも文明史について系統発生と個体発生の類比を持ち込むことは、あきらかな問題があると思えます。歴史発展段階説というものは、現在の世界の発展段階が頂点であること、つまり現在を成熟した大人の段階であるとみなすことで、はじめて成り立つような話であるからです。系統発生的に見た人類史の現在の段階が、すでに成長しきった大人の段階だと決めつけることには、なんらの根拠もありません。もしかしたらまだ乳児段階なのかもしれませんし、少年段階なのかもしません。そもそも人類が「類」として「系統的」に成長(発展)しているとみなすこと自体が、ある種の当為(決めつけ)にすぎないだろうことはいうまでもありません。

未来のことというのは、わたしたちは、まったく知ることができません。したがって、過去の歴史を考える場合に、「現在」を頂点とみなして過去へ遡及することは、自然な考え方であろうことは頷けます。けれども個体の発生の歴史には、死という終局がはっきり設定されていますけれども、人類という系統発生の歴史には終局が設定されていません(たぶん)。この個体の一生という限定された時間性と、系統(人類)の歴史という限定されない時間性をパラレルに考えることは、相当に無理のあることといってよいのではないでしょうか。

そこで吉本は、遠い過去の人々の心的な在り方を想像的に考えるために、過去の心性を残しているであろうような言葉の世界として、柳田国男の「遠野物語」に注目します。

『共同幻想の時間的な流れは、都市と村落によってもちがっている。知識人と大衆によってもちがっている。また地域によってもちがっている。生産諸関係の場面によってもちがっている。ある村落では、共同幻想の時間はきわめて緩慢にしか流れない。ある都市では共同幻想の時間は急速に流れる。こういう部分社会での共同幻想の時間的な落差はさまざまな位相で存在しうるのである。もしも個体が、この共同幻想の時間性に同致しうる心的な時間性をもつとすれば、かれの個体の心性が共同幻想の構成そのものであるか、あるいは何らかの方法によってかれの心的時間性を同調させるほかはありえない。「遠野物語捨遺」の<いずな使い>は、自然にかあるいは作為的にか、かれの心的了解の時間性を共同幻想の時間性に同調させているのである。』

たとえば<狐>のような霊的小動物(いずな)を使って卜占的なことをする<いずな使い>の話を例にとって、共同幻想の時間性と個人幻想の時間性とが、どのように同調してゆくのかを考えようというのです。ある種の宗教的な共同性は、共同幻想が個人を包み込んでしまう構造としては代表的なものです。人間が<ありもしないようなもの>を、あたかも現実であると強く信じ込むにさいして、この宗教的な共同意識が大きく作用していることは容易に類推されるからです。

『<いずな使い>は、おそらく一時的な心的な集中と対象への拡散によって対象物の受容と了解とのあいだに“ずれ”を生みだすのである。しかし、このような“ずれ”が共同幻想の時間性に同調するためには、おそらくべつの条件が必要である。』

『<いずな使い>が能力を発揮するためには、すくなくとも村民の側にふたつの条件がいる。ひとつは<狐>が霊性のある動物であるという伝承が流布されていることである。もうひとつは、かれらの利害の願望の対象がじぶんたちの意志や努力によってはどうすることもできない彼岸にあると信じられていることである。』

巫女や霊媒師などが、その能力を発揮するためには、その個人に①自己幻想をズラして共同幻想(狐)に同致させる能力が必要だという条件がまず考えられます。だれでもが巫女や霊媒師になれるわけではなく、一般に霊能力といわれているような個人的資質がなければなりません。しかし、それだけで霊能力が発揮できるわけではありません。その共同体に属する他の人々が、②共同幻想としてソレ(狐)のことをすでに知っていること、また③ソレ(狐)に関わる現象を超自然(人間の意志の外側)だと信じていることが条件となります。つまり共同体のメンバーがみんな共同幻想としてソレ(狐)の神秘性を信じているという条件があって、はじめてそこに霊能力のある個人が<いずな使い>として登場できるわけです。

たとえばこのことをナチスの例のようなものに当てはめるとすると、ヒトラーは強力な霊能力をもった個人ですが、それだけで独裁制が可能なわけではなく、共同体に所属する人々による②③のような信仰(思い込み)があってはじめて、熱狂的な独裁国家が可能になるということがいえると思います。もちろん独裁の契機は、これほど単純な理由に限るわけではなく、もっと多様で複雑な要因があるはずです。ただ、ひとつの条件としてこの例を考えるなら、ヒトラー個人を断罪してもファシズムの問題は、まったく解決しないことになります。②③の条件があるところでは、第二・第三のヒトラーが、いつ現れてもおかしくはないからです。

『ここで狐が化けた<女>は、けっして柳田国男がかんがえるようにたんに女性を意味するものではない。むしろ<性>そのものを、いいかえれば男女の<性>関係を基盤とする対幻想の共同性を象徴しているのだ。
 ここで、言葉を改めねばならぬ。
 村落の男女の対幻想は、あるばあい村落の共同幻想の象徴でありうるが、それにもかかわらず対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。そこに村落の共同幻想にたいして村民の男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相が存在する、と。いうまでもなく、このことは村落の共同体における<家族>の本質的な在り方を象徴している。』

ここで、対幻想と共同幻想の関係の本質について、ひとつの図式が提示されています。“狐が女に化けるのは、それが性関係=対幻想の象徴であるからであり、その性関係=対幻想は、消滅することによってしか共同幻想に転化することができない”と述べられています。この<消滅する>ということばは、何を指しているのでしょうか?

おそらく消えてなくなってしまうものというのは、性関係=対幻想がもっているビビッドで生々しい現実性のようなものだろうと思われます。性(セックス)を仲立ちとする関係性がもっている直接的な現実性、その生々しい部分が抽象化され概念化されることによって、それは共同幻想へと転化されうる契機を獲得するのだ、そういうことだと思います。

現在でも家族のありかたは法(共同幻想)によって規定されているわけですが、それは現実的な性関係=対幻想のビビッドなありかたとはまるでちがって、抽象化された概念規定として存在しています。いま議論されている夫婦別姓問題なども、本質的な意味では、現在の対幻想のありかたと共同幻想のありかたのあいだに、以前にはなかった齟齬が生じるようになってきたということでしょう。

この対幻想と共同幻想の関係は、じっさいにはどのような構造になっているとみなすべきなのか、うまく読み解くことはなかなか難しいのですが、すくなくともこの論考が書かれた動機について、なるべく単純な図式で言いあらわそうとすると、つぎのようなイメージを考えればよいのではないかと思います。

わたしたち人間は、本来的(自然的)には身体的存在としてのビビッドなありかたを基とする対幻想の世界に住んでいたはずなのですが、歴史的に国家のような共同幻想が発生してきて以来、ビビッドな対幻想世界の上部に抽象的で無味乾燥かつ強固で抑圧的な共同幻想が聳え立つ世界をつくってきたのだというようなイメージです。このイメージにしたがうならば、対幻想のありかた、およびそれが共同幻想へ転化してゆくありかた、その両者の関係をうまく解きほぐすことができれば、共同幻想の強圧的な抑圧力を解除/減衰するためのヒントが得られるのではないかと思われます。もし人類社会が、いずれ国家のような共同幻想を廃棄することができる日がくるとするならば、そのとき人間と人間の共同性の絆としてありうべき関係性は、対幻想という概念のなかにしかないはずだ、吉本はそう考えたのだろうと思います。

※『 』内は、吉本隆明「共同幻想論」(河出書房版)よりの引用です。


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