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ブルー、新宿
暑い日の新宿、
彼女は眉間にしわをよせながら歩いていた。
暑いといっても夏じゃない。まだ肌寒いといわれていたはずの春の日、だからプールもあいていないし、入っていい海や噴水も極端に少ない。なんでか聞いたら、まだ寒くて水が冷たすぎるから開放しないんだという。
寒いかどうかなんて、個人の感覚じゃないか。あいつらは寒いだろうけれど、あたしは寒くない。水なんて冷たいほうが気持ちいいに決まってる。あいつらは多数派だけでいつも判断して物事を決めやがる。
彼女は、水場を探していた。
彼女の歩き方はのっぺりと特徴的であった。のっぺりと緩慢なようでいて、それでも自由にならない足先をむりやり近位筋でおぎなうかのように、見かたによっては若干跳ねているみたいに、のっぺりと歩いた。その一歩一歩は都会で歩くのにはゆっくりすぎ、また都心の人ごみで歩くのには早すぎる、やはりここでも多数派の邪魔になり、彼女にとっては多数派が邪魔であった。どうにも波長があわなかった。
思うように動かない自分の脚を手で押したり引いたり、にらみつけたりこっそり叩いたりつねったりしながら彼女は歩いた。
歩くのってめっちゃコスパ悪い。遅いし疲れるし効率もよくない。泳いでいるほうがずっといいじゃんか。
彼女は悪態をついて、重りを背負っているかのように重たいこの街の重力を恨んだ。慣れないためにたまにリズムが乱れて苦しくなっていく肺呼吸。苦しくなった時に酸素と食事を同時にとりこむために口を大きく開ける癖がある。マスクを強引にはがして顔いっぱいに口を開けると、少し体が楽になったがおなかは空腹のままだし、道行く人々から好奇の目を向けられる。人の目が不快でたまらなかった。深海だったら何も見ないで見られないで済むのに。自分のふるさとの海と真っ赤だったきれいな鰭を思った。今は白っぽいうつろな足が、ぷらぷらな元尾鰭をぶらさげてなんとか足首っぽくやっている。
陸に上がったらまず車いすを作れってそういえば言われてたなと親戚の言葉を思い出す。けれど今はまず、水場が必要だ。のどもからだもさっきから渇ききっている。渇きから少しでも身を守るために、そして視線を集めないように、またしっかりとマスクで顔を隠す。そして、ようやく駅前の広場に着いたので噴水を探す。
ふと、深海にはなかったような大きな音がつらなりまとまりをもって彼女の小さな耳に届く。人が数人集まって同じオレンジ色のジャケットを着ている。何人かはかたまってメガホンを使ってなにかを主張していて、何人かはビラを配っている。ビラを配っている人は等間隔にちらばっていて、人ごみのなかで通行人たちにビラを押し付けて受け取ることを懇願していた。デモ、というやつだった。集団が掲げている旗には「人魚差別撤廃」「人魚にも人権を」「人魚に補助金を出せ!」と書かれているが彼女にはなんのことだかわからなかった。ただただ水場を探して歩くのに必死だったからだ。
「人魚がこの街で人間と暮らすようになって10年が経ちましたが、人魚の苦しい生活ぶりはこの10年ほとんど変わっていません。つい3年前に魚介部落差別撤廃法が制定されたのちも、地域社会や学校で差別を受けている人魚がまだ、たくさんいます」
「人魚も陸上人間も同じ脳と心を持っていると現代の科学が明らかにした以上、人魚に陸上人間と同じ権利がないことは人権侵害にあたります」
「人魚は人間に似た形をしていますが、鰭が足に変化したかたちのものや、その発達変化が中途で止まってしまったものが多く、歩行などあらゆる面での機能障害が生まれつき生じています」
「人魚にも選挙権が必要です」
彼女もまた、人間と魚の間に生まれた人魚だった。
見た目は服を着てマスクをしていればほとんど普通の人間と変わらない。ただ頬の部分に薄いブルーの鰭があり、そして人間でいうところの足首から先が鰭の形をしており、両脇腹に玉虫色の長くて美しい鰭が隠されている。そして歩くのと呼吸するのがおそろしく下手である。
この10年、海はどんどん汚くなっていくばかりで住む場所もお金も娯楽もなにもないため、多くの人魚が海から陸地にあがってくるようになった。人魚は昔ほど珍しくない存在になったはずだが、中途半端に増えすぎた結果待っていたのは少数派としての迫害であった。社会システムとしても、心のつながりとしても、人魚は差別の対象であり、特別扱いの対象であり、めんどくさいと思う対象にされていた。
人魚はデモ活動を無視して必死にのっぺりと歩いた。歩くのが大変な個体に対しても、人ごみは容赦ない。向かってくる一人をなんとかよけきったところで人魚は、後ろ歩きしていたオレンジ色のジャケットにぶつかった。ぶつかった拍子にバランスを崩し、人魚は地面に手と膝をついた。
「あっごめんなさい大丈夫ですか」
オレンジ色のジャケットはデモ参加者で、若い女性だった。何も苦労をしていなさそうな、中流っぽい整い方をしている。
「大丈夫です、すみません」
人魚はうつむいたまま静かに答え、ゆっくりとひとりで立ち上がった。
デモの女性は自分が手に持っていた「人魚差別をなくそう」と書かれているビラに目をやり、
「あ、もしよかったらこれもらってください」
と差し出した。満面の笑顔を作って。
デモの女性には今ぶつかった彼女が人魚であるとは気づかれていないようだった。
「いえ、結構です」
人魚は表情を変えないまま、そう答えて女性から離れた。デモの女性はオレンジのジャケットに見合った、きらきらした目をしていた。まだ誰からも拒絶されたことのなさそうな、清らかな目。
人魚はデモの女性のきらきらした目と、美しい肌と、ビラに印刷されていたおとぎ話の主人公のようなきれいな人魚のイラストを交互に思い返しながら、少し擦り剝けて赤い血をにじませた膝をかばいつつ、足をひきずってまた歩いて行った。
彼女は人魚で、水場を探していた。