ルールと信じられる自分
コレって、やることになってるからやるけど、なんか意味あるのかな?
やらないと誰かに迷惑かかったり損したりするのかな?
というようなことが世の中にはちょいちょいある。
「法律」とまではいかないし、罰則規定のないような「ルール」みたいなもの。
学校や会社のような「組織」にはそんな小さいルールがたくさんある。
僕は学生の時も社会人になってからも、それらの決まり事のほとんどが「面倒だなぁ」「無駄じゃね?」と本気で思っていたタイプだった。
だけど、時間を経て今となっては会社という組織を作り、その中でのルールも自分で作るという立場になって、今度はどうやって組織の仲間にそれらを遂行することの意義を伝えるか、というブーメランに襲われている。
自分がそうだったからこそ、ルールをシレッと守らなかったり、バレなきゃオッケーでしょ、とコソコソとズルするタイプにはよく鼻が効いてしまうものだ。
さぁ、なんて声をかけようか。
確かにルールだけど、それ自体誰か一人が守らなかったからといって、そこまで大きな影響があるわけでもないようなルール。
「みんなちゃんとやってるんだから君もやりなさい。」
「仕事が同じくらいできてるとしたら、ルールを守る人と守らない人、どっちを重用するかはわかるよね?」
もしくは「ルールを守ることも仕事の一部だよ」
まぁ、どれも正しいように思うし、自分も散々言われてきた。
あの頃の上司、先輩方、同僚がもしコレを見たら、お前が言うかぁ⁈笑、と腹を抱えて笑われるのを覚悟で書くが、今日はこんな言葉で伝えた。
「意味がある・ない、誰かが見てる・見てないに関わらず、ルールとしてみんなでやろうと決められたことを「別にこれくらいいいでしょ」と、適当にごまかしてあの時の自分はやらなかったんだ、って、いつか思い出すんだよ。
それはなるべく少ない方がいい。」
絶対ない方がいいとか、将来後悔するぞとか、そんな重い話しではないのだ。
もちろん、ルール自体がそもそもの必要性とか時代に合わせた柔軟性とかを問われるものであれば、どんな小さな異議申し立てでもちゃんと対応するつもりだし、強制するつもりもない。
破らないように監視するとか、守らなかったことを裁く、ということをしたいのではなく、ただただ、もっと自分を大事にしてほしいのだ。
ちょっとだけ逸れるが、サントリーが打ち出している環境への配慮の取り組みのコピーを思い出した。
「素晴らしい過去になろう」
2030年までに、ペットボトルをゴミではなく資源にする、という決意で取り組んでいるらしい。
僕が最初に見たのはつい最近のテレビCMで、芦田愛菜ちゃんがこのフレーズを言っていたものだ。
ここでは、その取り組み自体がどうとか言いたいのではない。
かつての僕のような、多くの面倒くさがり、世の中をちょっとナメてかかってるキッズたちに、頭の片隅にちゃんと置いててほしいワードだな、と思ったのだ。
未来の自分のために、自分をごまかすようなことはなるべく少ない方がいい。
しくじりパイセンからのちょっとしたアドバイス程度に聞いてもらえればいい。
清く正しくあれ、とか、嘘は絶対にダメだとか、それは誰にも無理だし、清く正しくなくても、時に嘘ついたり自分を下げるようなことをしてしまっても、なんとかかんとか生きてはいける。
むしろ、ほとんどの人がそうやって生きてきてる。
だけど、特に今10代であれば、まだまったく想像もしていないレベルの人生の試練の時や、自分にとっての大きなターニングポイントっていうのは必ず誰にも訪れる。
その時に、自分の出せる力を目一杯出して乗り越えるんだけど、最後の一踏ん張りになるのはきっと、自分を信じてあげられるかどうか、なんじゃないかなと思うのだ。
僕は小さい頃から自信過剰だった。
周りからもそう思われていたと思う。
でも、自分だけが知っているのは、それはとにかく小心、つまりビビりを覆い隠すためのハリボテのバリアだった。
でもそれは本当に脆かった。
自分で偽物だとわかっているから。
虚栄心、見栄、嘘、大袈裟、紛らわしい
それで覆い隠してなんとか少しでも大きく見せようとしていることを自覚している、そんな自分を大事なタイミングで信用できるか。
できなかった。
僕はことごとく自分を信じてなかった。
何も身につけずに大学を卒業して仙台に戻ってきてからの僕はまさにゼロだった。
「どうしたい」「どうなりたい」すらなかったから、マイナスだったのかもしれない。
だからなのかもしれないけど、たまたま出会った今の仕事だけは、ちゃんと一人前にやれるようになりたかった。
信じてあげられる自分になりたかったんだと思う。
つい先日、個人事業主から法人成りして、新たなスタートを切ったばかりなので、まだここでこんな形で昔を振り返ってる場合じゃないんだけど、僕は「こうやったらみんなうまくいきますよ!話し聞いてください!」というのがしたいわけじゃなくて、逆に失敗から学んだことを話していきたい。
だけど、それは若い子たちがそれを聞いて転ばぬ先の杖にするのではなくて、考え方の一つとして膨らませてほしいという、その程度のものだ。
失敗しないように、転ばないように、と目を配って手を添えて、違うそっちじゃないこっちだ、と導くようなことはするつもりもない。
それは本人たちにとって真の経験にはならないと思うし。
失敗してもいいし、時にはごまかしたり、内容によっては逃げたりしてもいいとすら思っている。
でも、必ず君にも訪れる、いざ、ここ一番、という時に、自分を支えてくれるものの中に、自分をどれだけ信じられるか、が生きてくることを覚えておいてほしい。
失敗を恐れてチャレンジしないよりは、多少しくじっても前に進んで自分の可能性を広げた方がいいと思う。
失敗しても壁にブチあたっても、またダメな自分、弱い自分と思っていたとしても、最後に、でも応援したくなる、そんな「信じられる自分」を作っているのは、紛れもなく今という日々なのだ。
かつての上司・先輩・同僚たちが鼻で笑っていることを思い浮かべながら…