#1|「耐える」の真意(現時点ver.)
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この記事をオススメしたい人
・リアルな海外生活を知りたい人✔
・自分の行動や選択に迷っている人✔
・前に進んで懸命に生きている人✔
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序章
気がつけば3年生の秋学期が終わり、大学生活も残り半分を切った。
今日は、久しぶりに大学生活のことについて記そうと思う。
「耐える」
私は数ヶ月前まで、この言葉の意味を知らなかった。
いや、正確に言えばこの言葉が苦手だった。
私は小学校高学年の頃から、目標がなかった時期がない。
反対に言えば、常に目標がある状態で生きてきた。1秒たりとも目標がない状態になったことがない。
こんなことを言うと、自分を強く見せたがっているような、尖った印象を持たれるかもしれないが、これは私の性質、細胞レベルの話であり嘘偽りない事実である。今でもそうだが、私はおそらく強度の未来思考型の人間である。
理想や夢、目標があるからこそ生きられる。
「常に目標があってすごいね」という言葉をよくかけていただくけれど、
努力して目標を持っているのではなく、デフォルトで目標が常にあるので自分ではすごいことだと全く思わない。(もちろん、お褒めの言葉には感謝だけどね!)
すごいのは私ではなく、目標を持てる環境にいさせてくれる家族や、私を支えてくれている周囲の人々である。
話を戻すと、つまり私は常に目標がある。
正確に言えば、使命と目標がある。
小学校高学年から一貫して心にある使命を果たすために、目標を中長期的、短期的に立て、ひとつずつ階段を登っていっているイメージ。
そのため、私は、1ヶ月後、1年後、数年後の未来のためにガツガツ行動することが心から楽しいと感じる。毎日新しい発見をして、学んで、発明することが大好きだ。
だからなのか、
「耐える」…この言葉はあまり好きではなかった。
外的要因に身の流れを任せて、受動的に生きてチャンスが来るときをひたすら待つようなイメージを持っていた。
選択することができる時代で、なぜ耐えるのか?なぜ行動しないのか?
しかし、私はこの数年間、特にこの2年間で、「耐える」という言葉の本当の意味を、その片鱗だけでも学んだような気がした。
未来の自分!
もしも今あなたが今の状況に苦しいと感じていたら、
自分の行動・選択・目標に「本当にこれでいいのか?」と感じていたら、
ぜひこの文章を読み返してほしい。
1. 実はこんな環境で生きています
私は現在、アメリカ・ニューヨーク州の4年制私立大学に通っている。
海外大学、しかもニューヨーク州の大学と言うと、かなり華やかなイメージを持たれることがある。
私もそんな想像をして今の進学先を選んだ。
しかし、実際に私がいる場所は、ニューヨーク州の中でも随一の自然を誇る静かな街である。
ショッピングスポットに出るには車で40分ほどかかるような街なので、
この大学の学生の遊びと言えば必然的にパーティー一択になる。
お酒を飲んで踊ったり騒いだり、それが彼らのストレス発散法なのだ。
しかし、困ったことに私はお酒に非常に弱い。
日本人の友人達の中でも誰よりも弱いのに、そもそもの肝臓の作りがおそらく違うアメリカ人の彼らと飲むとなると、いつもかなりの覚悟を決めて行く。
(友人達は私が弱いことを理解してくれているし、ちゃんとお世話もしてくれます🙆だからこそ、社交の場として時々は付き合う!笑)
ゆえに、やはりお酒は頻繁に飲めないし、ましてやストレス発散にはならない。
毎週のように外出することも難しい。
となると、必然的にストレス発散方法は、趣味の美術系のことか勉強しかなくなってしまう。
2. コロナ禍の海外大学生活の幕開け
現在このような環境で生きている私だが、ニューヨークの大学を志望した1番の理由として「ミュージカルの本場」であることがあった。
小学校5年生からミュージカルをやって来て、アートと実学の学びを深めたいと思って、現在の大学の “Theatre”(演劇学部)とInternational Relations(国際関係学部)に進学した。
実は大学入学前、私は東京の劇団のオーディションに合格して少しの期間上京していた。中学生の頃から憧れていた念願の劇団の舞台だった。大学が秋入学だったため、高校卒業後の数ヶ月間をミュージカルに注ぎたいと考えていたのだ。
しかし、その作品もコロナの影響であえなく中止になった。家族に頭を下げてやっとの思いで上京生活を始めてから、たったの1週間後の出来事だった。
本当に悔しかった。切なかった。いや、これらのどの言葉にも当てはまらない、言語化すればするほど苦く弾けてしまいそうな感情でいっぱいだった。
「ここで鍛えられなかった分、大学では生きる。」
大学でミュージカルを学ぶことへの期待と意欲がますます膨らんだ。
しかし、またもや過去の私(の選択)は私に試練を与えてきた。
なんと、コロナの影響で大学でも歌やダンス、お芝居などの実技の授業も受けることができなかった。代わりに受けた舞台照明や大道具の授業は、勉強にはなったがやはり心は生き返らなかった。
そんなこんなで1年生の1年間が終わった。
その頃にはもう見切りをつけて戦略を変え、私は学部を変えることにした。
そもそも私は役者になりたかったわけでなかった。
“Social Artist”になりたかったのだ。
(私が作ったオリジナルの職業。note 1本目の投稿参照😸)
もしも予定通りミュージカルを学ぶことができていたのであれば、Social Artistの活動の一貫として、大学時代は役者としてどこまで戦えるのかハングリーに試していたかもしれない。また、それによって未来のビジョンも変わっていたかもしれない。
しかし、Social Artistとは、“アートを通して世界平和を目指す社会的芸術家”を指す。
起業家、コミュニティ創設者、演出家、作家…。
もしも私がSocial Artistとして大成したとき、おそらく世間はいろんな肩書きを私につけるだろう。そのひとつに、「役者」があったかもね、というだけの話。
演劇学部に進むことを決心したときも、役者で食っていくという考えはなかった。
ミュージカルと実学、どちらも学びたかった。だから、リベラルアーツカレッジを受験した。
しかし、ここでも過去の私は試練を与えてきた。
ダブル合格していた国際関係学部が、コロナの影響で廃止された。そう、受かった学部がなくなった。
え?そんなことあるの?と感じてしまうが、どうやらコロナ禍の雇用の関係で教授がいなくなって廃止されたらしい。
THIS IS 海外大学進学。
さて、ここで状況整理をしよう。
この時の私は、演劇学部と国際関係学部という進学先の手札2枚を、両方失った。
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大学の教授と相談した結果、
私は社会学/人類学部に学部を変更することになった。
しかし、これが運命の出会いだった。
この学部にした理由としては、私が国際関係学部で学びたかったことがこの学部には全て詰まっていたから。むしろ、この学部の方がアートと社会問題の繋がりを探究したかった私には適していた。
国際関係学の授業は、政治経済などの実学で終わってしまう。ずっと硬派な報道番組を見ている感じ。人間の生の部分に触れるような学びはなかった。(学部は消えたが、授業はいくつか残っていたので実際に受講してそう感じた。)
3. 海外生活における試練
そんなこんなで、アメリカの自然の中でひたすら学問に向き合う毎日だった。勉強は、今でも心の底から楽しい。大学教授を志した時期もあったほど、日々の学びが本当に充実していた。
しかし、越えるべき山は高かった。
地に足が着いてきたと感じ始めたのはここ2ヶ月間のことで、
それ以前は牙を隠すことさえ忘れて、
毎日無我夢中で目の前のことに食らいつくしかなかった。
試練としては主に2つ。
i. アウェーの環境で生きる上で避けては通れない試練
ii. 自分自身の人生の試練
i. アウェーの環境で生きる上で避けては通れない試練
具体的に起こったやばたんエピソードは山ほどあるのだが、
例えば、
・支払ったはずの学費200万円の行方がわからなくなる
・ルームメイトが酒豪。パーティーガール。お酒の強要。深夜まで爆音で音楽流される。
(最初の1年間は我慢してしまっていたが、勇気出して伝えた。お互いが納得のいくルールを決めた。現在は解決済み〇)
(そんなルームメイトだが、学校で1番の親友。仲良くなってから2人で住み始めたパターン。お酒だけは反りが合わない👼)
・基本的にクラスメイトは皆優しいが、なかには差別主義者もいる
(休日にもグループで集まって資料を作らないといけないのに、私の話だけガン無視。泣)
・寮のお手洗いで月経用品流さない人がいる
・部屋にコウモリ出現
・深夜3時、知らない男が部屋のドアをこじ開けて侵入しようとしてくる
(セキュリティーに通報、怖すぎた)
…こんなことが日常茶飯事なのだ。
しかし、これらは起こった現象に過ぎない。
これらの現象に対する対処に加えて、アウェーで生きるには自分の生活を自分で運営していかなければいけないのだ。
現実的すぎる額面を毎学期見て、親に説明して海外送金の手続きをするのもそう。
3日放置したらパンクする量のメールを見ながら、いつまでに手続きを済ませて、何をどこへ支払って、誰に何を提出するのか自己管理するのもそう。
優秀な成績と取るために、教授と密にコミュニケーションを取って自己アピールするのもそう。
私は高校卒業後、アウェーで生きるという経験をさせてもらえていることに心から感謝している。問題解決能力が著しく鍛えられていると感じている。
自分で判断する力や人とコミュニケーションを取る力が鍛えられるのはもちろん、
日々大小問わず膨大な量の問題解決を強いられるので、
「どうしたら解決できるのか」
「どんな状態を解決といい、それに至るにはどんなプロセスが必要か」
などと、生きていく中で発生するどんなタイプの問題に対しても応用できる
思考の型が身についてくる。
ここでの学びが、人間関係やインターンの業務など、
人生のあらゆる場面で私を助けてくれている。
ii. 自分自身の人生の試練
iで話した試練と並行して、自分自身の人生の試練も多くあった。
「これについては卒業するまで絶対に公にはしない」と、腹の中に固く決めていたことがあったのだが、今日はそのひとつを話そうと思う。
大学卒業の日にスペシャルノートを公開しようと思っているのだが、既に存在するエピソードで埋めてしまうのはもったいないからね。これからますます面白くてpassionateなエピソードが増えるだろうから、そのページを空けておかないと!
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卒業するまでに絶対に公にはしない、と決めていたことのひとつは、
「実は今の大学を辞めるつもりだった」ということである。
正確に言えば、別の大学に編入しようとしていた。
アメリカの大学も日本の大学も考えていた。親には内緒で、中国やシンガポールの大学も、現地の友人に話を聴いたりして本気で調べていた。
ゆえに、気持ちとしては、
「海外もう無理。日本に帰りたい。」というものでは一切なく、
「この大学から抜け出したい。」というものだった。
先述の通り、
私がニューヨークの大学を選んだ理由として、
都会であることと、ミュージカルの本場であることがある。
特に、都会であることは、小学校高学年頃からの切実な願いだった。
その頃から、家族との外出やミュージカルなどで、年に数回は東京に行く機会があった。
ファッションや人、いろんな色と匂いがあって、訪れる度に東京を解像するのが面白かった。
また、高校生になって全国各地のEnglish Campに参加するようになって多くの同世代と知り合う中で、もっと大きなフィールドで自分を試したいという気持ちが強くなっていった。
中学生の頃までは「都会ってすごい!」という感覚があったが、その頃「東京ってこんなもんかよ」という気持ちが生まれた。
それらキャンプの楽しみのひとつとして、東京や大阪などの有名な私立の学校の同世代が、語学力や表現力、コミュニケーション能力においてどんな人たちなのかを期待して毎回参加していた。
しかし、もちろんインスピレーションを受ける子もいる中で、全員にそのワクワクを感じたわけではなかった。
言ってしまえば、普通だった。
むしろ、地方でのびのびと勉強をして、
カエルのようなど根性精神でそのようなイベントに参加していた自分の方が、そのイベントの講師に注目されることが多かった。
プレゼンのトリや、代表のお礼の言葉などを頻繁に任せてもらった。
始めて参加したEnglish Campの初日の夜には、都会の子に対する期待が完全に薄れてしまった。反対に言えば、生まれや出身など関係なく、フラットに個人を理解しようとする姿勢を持つようになった。
「こんなもんかよ」
「都会にいる子どもも地方にいる人子どもも、本来の才能・可能性に差はない。住んでいる環境がものをいうのではなく、個の時代だ。」
と思い始めた瞬間だった。
どんどんどんどん大きな舞台に行きたくなった。
とにかくいろんな人と、色と、匂いを見たかった。感じたかった。
だからこそ、都会に行きたかった。
日本の大学を志望していた頃も、東京以外には考えていなかった。
都会の名のある大学に行きたい、
そう思って中学受験、高校受験、大学受験をしてきた。
そのために、10代を勉強とミュージカルにかけてきた。
そして、晴れて受かったニューヨークの大学。
これからどんな環境で、どんな生活が待っているのか期待が高まった。
…が、空港に着くとどうだろう?
そこには、地元と変わらない景色があった。
あれ?
まあ、空港近辺だしね。街中からは少し外れているところなのかな。
(タクシーで大学へと向かう中で)
…あれれ?本当になにもないわよ?うーーん、、街の中心までは少し遠いのかな!
(20分後、大学に到着。)
…あれ、ここニューヨーク?😃
そう、何を隠そう、実はこの地はあのNYCから車で4時間も離れている
大自然溢れる街だった!!!!!!!!!!!!!!
東京と新潟の距離そのまんま😭
変わらない😭
いやいや!!!NYって全部都会じゃないのおおおおおお???!!!!!😭
そんな僻地に、ひとりで来てしまった。
・
・
そんな環境で過ごしていたこれまでの時間。
最初は驚いたが、
まあこんなハプニングも海外大学進学の醍醐味だろうと、楽しむしかないなと、
時間をかけて緑と学問に囲まれるスローライフを心身にフィットさせていった。
実際に、人生で始めてのスローライフはとても心地良かった。
静かな環境でストイックに自分自身と向き合える時間に感謝していた。
学業生活としては間違いなく充実していたし、友人や教授にも恵まれた。
家族には申し訳ないが、ホームシックになることは1度もなかった。
常に前だけを見て生きていた。
しかし、最初の1年間を乗り越えても、
まだ心のどこかで都会に行きたいという気持ちが消えなかった。
車を持っている友人にお願いしないとどこにも行けない。かといって、週末はひとりの時間も大切にしたかった。
ひたすら、授業と寮の行き帰りの日々。
週末は、ブロードウェイに観劇に行くんじゃなかったの?
たくさん街を探検して、いろんな人に出会って、いろんな景色を見るんじゃなかったの?
合理的に考えるとなおさらその思いが強くなった。
まだ、現在の学費が都会の大学よりも破格的に安かったら納得できた。
しかし、実際には大して変わらない。
同じ金額を支払っているのに、どうもこう環境は違うのだろう?
これらのことも含めて試練に挑戦できる毎日には感謝だったが、
これは「耐える」べきことなのか疑うようになった。
実際、別の大学に編入することは日本では重大事項のように扱われるが、
アメリカでは至極一般的なことだ。
むしろ、学費の安い大学に編入すれば、経済的にも良い結果になる場合がある。編入経験のある日本人も、知り合いにちらほらいる。
4. 決断
これらの一連の流れがあり、
私は2年生の3月、初めて家族に胸のうちを明かしてみた。
何度か話した末、やんわりではあるが条件付きで家族は認めてくれた。
そこから6月に夏休みに帰国するまでの間、私は次の行動に着々と進めていた。
日本人コミュニティの編入経験者で初めましての先輩方にzoomでお話を聞いたり、予備校の個別相談会にオンラインで参加したり。
志望校リストも作っていた。
そして6月。
もうこの地には戻ってこないのだなと、部屋をすっからかんにして帰国した。
しかし、日本に着いたその日、全てがひっくり返った。
東京駅で母と食事をしていたとき、
母が「とんとん、本当にもう戻らないの?」と。
顔を合わせてこの話をするのは初めてだった。
頻繁に通話する方でもなかったから、この話が話題に上がることだけでも緊張感が走った。
今振り返れば、その言葉にはその時私が受け取った重み以上に、母のいろんな思いが詰まっていたのだと思う。
2年生を終えてその夏休みを迎えるまでの間、いろんな夜を乗り越えた。
こういうことがあったよ、と具体的な事象について書くのは海外在住者として共有する価値はあると思うが、個人的な苦しみや辛さはここに書くつもりはない。
だから、グッと一言にまとめると、「いろんな夜を乗り越えてきた」。
これに尽きる。
だからこそ、母の言葉を聞いたときは、いろんな感情が押し寄せた。
海外大学に行かせてもらえていること自体本当にありがたいこと。
辛くなったらその心を思い出して、2年間やって来た。
いや、やって来させていただいた。
でも、また耐えられるのかな…?
選択し直すって、いけないことなのかな…?
そもそも私の決断は、逃げではない、前向きなものなのに…
編入したらお金だって安くなるかもしれないのに、なぜ母はまた話を戻すのだろう…?
東京から帰る新幹線の中では、
吸い込まれたら二度と出てこられないブラックホールに吸い込まれているような感覚だった。
あれだけ考えて母に話したのに、もう方法はないのかなと。
しかし、そんな感情とともに、もうひとつの感情にも気がついた。
私、編入したとしてもやっていけるのかな…?
地元について数日後、私は答えを出した。
・
・
数日後、私は母に
「もう一度向こうで頑張るね。お話を聞いてくれてありがとうございました。」
と伝えた。
数日間、ひとりでじっと考えている間、
ひとつの選択の基準がふと降ってきた。
「この決断をした、だって私だから。」
という文に両方の選択を当てはめたときに、納得できる響きはどちらかなと。
「編入をした、だって私だから。」
「もう一度あの地で挑戦することにした、私だから。」
納得できるのは、圧倒的に後者だった。
その時、初めて自分に素直になれた。
あの地に戻ることは怖い。
でも、
とっても怖くて、とっても難しそうで、全く予想がつかない、
そんな選択を好む人間こそ私だよなと。
それでやってのけるのが永遠だよなと。
「この決断をした、だって私だから。」
という文に当てはめたときに、人に胸を張って言えないと少しでも感じた選択はしない。
そう心に決めた瞬間だった。
そして、またこの地に戻ることを決めた。
・
・
決断。
それは、指針を決めるという事象に過ぎない。
決断したからと言って、すぐに状況が望み通りになるわけでない。
決断したあとも、絶えず生き続けなければいけない。
8月末、アメリカに帰った。
改めて入魂して帰ったものの、そこには最後の試練があった。
帰って数日後、授業からに帰ると
知らないメンズが2人、上半身裸で部屋でくつろいでいた。
ルームメイトが勝手連れてきていたのだが、そこにルームメイトはいなかった。
考えてみてほしい。
帰ったら、家に上裸の知らない男性達がいる恐怖を。
日本で何とか紡いできた糸が切れそうになった。
張り具合が、限界だった。
その頃、部屋は連日深夜までパーティー地獄だった。
耳栓をして寝る生活にも、ストレスが限界だった。
友人との通話でも、母との通話でも、
初めて取り乱した。
初めて甘えた。
5. 数年越しのチャンス
それでも、前に進むしかなかった。
正確に言えば、どれだけ苦しくなろうが追込まれようが、心の塵を払って払って最終的に行き着くのは、「勝つっしょ」。
気合いと自信と、支えてくれている人への想いだった。
どれだけ打たれても噛みつく。
週末だろうが、日本で長期休暇を楽しんでいる最中だろうが、
私は常に牙を隠し持っている。私が永遠だと証明する牙。
噛みつき返すしつこさと、牙の頑丈さはこの数年間で大分鍛えられた。
すると、10月にチャンスはやって来た。
インターンのお誘いをいただいた。
これまでNPOやボランティアとして活動してきた経験はあったけれど、
ビジネスの世界に足を踏み入れるのは初めてだった。
毎日が一気に忙しくなった。
新しい人達との出会いや新しい挑戦。
怖かった、予想できなかった「未来」(アメリカでの再スタート)を、
「現在」として確実に踏みしめ始めた。
そこから、あっという間に今日、12月31日に至る。
6. 「耐える」の真意
「1. 実はこんな環境で生きています」の文章の直前に、私は「耐える」という言葉があまり好きではなかったと述べた。
外的要因に身の流れを任せて、
受動的にチャンスをひたすら待つようなイメージを持っていた。
選択することができる時代で、なぜ耐えるのか、なぜ行動しないのか。
耐えるという言葉を聞く度に、そんな疑問がわいた。
しかし、私は、この数年間を通して「耐える」という言葉の本当の意味を、
その片鱗だけでも学んだような気がした。
「耐える」というのは、受動的にその時まで待つという意味ではない。
日々選択と決断をしながら、つまり能動的に生きて、
時が来るまで逃げずに真摯に生きるということ。
21才の現時点では、そう考える。
進んでいく過程で、楽しいうちはいい。
しかし、次第に辛くなって、
逃げたくなって、
自分に素直になれなくなって、
判断力が鈍っていく。
そのうちに、
これまでは目に入らなかった甘い蜜や逃げ道が
すぐ目の前にあることに気がつく。
鈍った判断力と疲れ切った心身で、
つい誘われてしまいそうになる。
けれども、そこで耐えなきゃいけない。
掴みたいもの、救いたい人、なりたい自分が頭に存在するのなら、
耐えるのだ。
そして、前へ前へと進むのだ。
この言葉に少しでも心が揺らいだのであれば、
あなたの勝利は前にしかない。
後ろでも横でもなく、前にしかない。
この学びを噛みしめて、私は2023年も進んでいく。
・
・
日々支えてくださっている家族、友人、先輩方、先生方、財団の方々、地元や全国、世界各地の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。
いつもたくさんサポート、応援、愛情を本当にありがとうございます。
2023年も、学業にも、仕事にも、周囲の人々にも真摯に向き合い、進み続けます!
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。