名付けて衣類手記第19話【棲み分けは思いやり】
どうも衣類です、たまにまたお絵描きを楽しんでいます。
今日の絵はウサギの人、衣類ウサギとでも名付けよう。
自由にお絵描きしている時は楽しいのに、もっと上手に描こうと練習するときはくっそ詰まんないのってなんでだろう…。
そんな訳で成長の無い衣類です。
さて、今回のテーマは
「棲み分け」
各々に好きなものがあったり、其々の体質や性質があったり、環境や持ち物は人によって違う。LGBTがああとかポリコレがどうとか、昨今かなりやかましくなってきてはいますが
肯定することと受け入れられるかという所は別物として考えないと、人間息が出来なくなると僕は考える。
理解自体を強要したり、受け入れて当然だといった態度及びそれが叶わないと被害者意識を押し出したり、メソメソウジウジを当てつける態度は
内容が何であれもれなく嫌われます。
言ってみれば「受け入れろ、拒否するな」という態度を愛せるだろうか…。
「存在を肯定できる」ことと、「それを受け入れられるか」を分けて考えることはモラルや思いやりに属するものだと思います。
お互いの心と自由を守る行動こそが「棲み分ける」ことだと思います。
考えや趣味嗜好における自由というのはそこに生じるのではないだろうか。
物凄く簡単に言うと、チョコミントが好きな人は
「チョコミントおいしー!好きー!」
とは言うけど
それを苦手とする人に
「なんで食べないの」
「食べてくれないなんて、私達を否定するの?」
「拒絶するのは差別だよ」
って言わないでしょう。食べなくていいんだよ。
なのにそこをはき違えて、食わせようとまでする人もいる。
(あくまで個人の体感としてだが)ポリコレ云々の理解に関してだけでなく
障害福祉においてもそうだとは思うのだけど
住み分けを放棄し区別なくひけらかすことを、あたかも自由だと誤認している人は多い。
障害があって定型発達の方と働くのが難しいという人の為に、A型B型移行支援などなど、様々な施設が生まれたように
何でもかんでもいっしょくたにしては息が出来ないのだ。生きていけないのだ。
棲み分けが出来ないからこそ散った命も沢山あったはずだ。
自由とは無秩序の事ではなく、お互いが思う自由を互いに尊重しあえる「秩序」のことなのではないだろうか。
僕は誠実さや自由、モラルというものをそういうものだと信じているので
趣味嗜好においては無駄に踏み込まず、強要もせず
なるべく棲み分けという姿勢を保ちたい。