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吉行淳之介 『暗室』| 古井由吉 『杳子』
作家が自らの思うところをその言葉で語るとき、少なくとも近現代日本文学史という大きな歴史的なカテゴライズという文脈に際しては、一つこれを特徴付けるためのとっかかりとして「私小説」がキーワードとして挙げられる。
作家が何故、文章を書くのかという永遠の問いを近現代の日本文学史の中では、これに少しばかりの修飾を加えた、真にリアルな文章とは何かという問いへの一つの帰結が「私」、すなわちペンを取る作家当人が経験し解釈した世界のリアルに対する、ありのままの吐露、あるいは抑圧され嫌悪されるあらゆる反社会的な感覚への内面から湧き出る幾ばくかの共感、またそうしたものの積み重ねの上に巻き起こる不幸、破滅、または逃避への遠慮のいらない暴露的な書き下しというのが、少なくとも1907年の田山花袋の『蒲団』の発表から1994年の大江健三郎のノーベル文学賞に至るまでのおおまかな筋書きだったと考えても差し支えないでしょう。
近世フランスの哲学者ルネ・デカルトが、全く何の前触れもなくフッと湧いたかのように方法的懐疑という特殊な手続きを通じて「我、思う故に我あり」に至ったわけではない。
世界を眼差す自己という意識と共に、この存在と対峙するあらゆる存在との関係への記述は、まさしく近現代の作家にとっての一つの指針ともなったわけでもありますから。
そういう切り口から吉行淳之介の諸作品に目を通していると、自分を除いた全てを物として一度解体する表現上の試みには圧倒させられる。上野千鶴子に言わせれば彼の文章は「女性を完全に物扱いしている」とのことであるけれど、無論その通りで、そこまで物扱いさせてまで対象を描き上げることで、その対象にまつわるあらゆる「リアル」を逆説的に逆光的に映し取っているという点で新しかった。例えば川端康成辺りに代表される新感覚派の作家群たちを特徴付ける一つのエッセンスとして主人公の動きを控えめにして、その他方、彼を取り巻くあらゆる他者の動きにフォーカスして、その動き一つ一つに対して観察的な言葉を添えていく仕草なんかがあるけれど、これは後年、「やれやれ系」という言い方でサブカルチャーにおけるキャラクター像の一人として見做されもするわけだけれども、吉行淳之介の場合はこの感覚をとことんに突き詰めて、良い意味でも悪い意味でも執着的にまでガビガビになるまでに磨き上げたという風に見るといくらか分かりいいかもしれない。その辺、特に彼にとっては女に対する感覚はある種、研ぎ澄まされ過ぎたばかりのものさえあった。それはフェミニズムに対するダンディズムのような感覚さえ時折思わずにはいられない。
それと言うのも彼が女を語らうとき、そこに必ずと言っていいほど羽織られる概念としてある「普通の」女のうちに眠る娼婦的な性質、あるいは男と女の関係をそっくりそのまま息子と母親という関係と言い換えてしまう言い回しなんかが窺える。これらがいわば格子のようにグリッドされて、そのグリッドの中でプロットされたあらゆる思想、あらゆる観念、あらゆる意志とが、さながら新印象派の点描画のように再構成して小説という形に昇華させるというのだから、その観察眼の鋭さには圧倒させられる。良くも悪くも、本当にこれは良くも悪くもではあるのだけれど、吉行淳之介という作家は他人という現象をよく見ているのだなあとしょっちゅう痛感させられる。
吉行文学の骨頂として、反小説という側面をやはり見出さないわけにはいかない。1970年、ちょうど三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地での割腹自殺を遂げたまさにその年に上梓された『暗室』はその点、やはり象徴的な作品で、交通事故で亡くなった妻、圭子の幻影と、彼女が中絶し墜ろしたという記憶、そしてマキ、多加子、夏枝という3人の女性との関係がさながらシェーンベルクの四重奏曲のような幻想的ながらもどこか硬質的で、悲しみと寂しさとが常に背後に立つような独特な文章を形成している。
50年代から60年代にかけてのフランス文壇でロヴ=グリエやジャン・リッカルドゥー、フィリップ・ソレルス、ル・クレジオらがヌーヴォー・ロマンという形式の中で、構造の融解、時間推移の否定、キャラクターの典型の破綻なんかを試みたのを思うと、当人が知ってか知らずかはさておいて、やはりその辺からの影響を鑑みずにはいられない。
ところで吉行淳之介が描く「私」では、私と対比して位置付けられるあらゆる他人を物質的に描写し、そこにかかる他人そのものではなく、それと私とを結びつける「関係」を執拗なまでに描き上げたわけだけれども、やはりこの方面での試みへのもう一人の作家として古井由吉を挙げずにはいられない。
古井由吉は特に精神的な疾患を抱えた人間を通じて現代社会が彼らから突き放すように設けた距離というものを描き上げる。特にこの距離というものもまた「私」と「私以外の全ての他人」との関係という意味で一つ強烈な結び付きを持っているという意味でも、吉行淳之介と関連して目を通しておいても損はないでしょう。
吉行淳之介に『暗室』の翌1971年に芥川文学賞を受賞することとなった古井由吉の『杳子』は、精神疾患を抱える杳子とやはり「私」とが関係を持つ話ではあるのだけれど、本作が最も意味深長に掘り進めていくのは連続への疑念だと言えばいくらか分かっていただけるのかもしれない。
『杳子』の冒頭には登山帰りの杳子が突如として高所恐怖症となり主人公である「私」から「山頂は大丈夫なのに下山途中の谷底に高所を見出し恐怖するとはこれいかに」などと困惑させられる場面があるけれど、杳子の世界を支配するのはまさにこの瞬間、瞬間の連続を連続として捉えきれず、場面と場面との状態がどんなに同じであってもそれが彼女にとってはやはり異なる現象の事実として認識されるということを如実に現している。
この断ち切られた連続への認識、連続を連続と見做せなくなった世界への供述は、同時に「私」以外の全てへの関係が複雑化極まる今日への果てしない反駁を見ているようにさえ思える。
関係、あるいは私と私以外とを繋ぐあらゆる観想への結び目は今日、インターネットやSNSの飛躍的普及の中で意識の胸中から飛散し薄弱となっていきながらも、しかし反比例するかのように、この結び目そのものが彼らを縛り付けるように求めてならないのは、21世紀の生活がもたらした影の一つなのでしょう。
この影への一つの洞察として古井由吉も吉行淳之介も大きく考える一助になることでしょう。あるいは読後、世界の見方が少し変わってくる小説の一つだとさえ思う。本当であればそこに大江健三郎を併記して語りたかったけれど、大江は大江でまた別に語る機会があれば良いなぁなどとさえ思う。