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『ゴジラ-1.0』について07 ゴジラの咆哮
ゴジラは独特の咆哮を発する。「ゴジラの声と言ったらコレ!」という、超有名な咆哮だ。私は特にゴジラファンという訳ではないのでゴジラ映画をほとんど見ていない。したがって確たることは言えないのであるが、恐らく、ゴジラの咆哮に明確な意味を持たせた監督はこれまでいなかったのではないだろうか。例えば『シン・ゴジラ』におけるゴジラの咆哮などには何の意味もない。意味もないというよりも、咆哮に意味を持たせるという発想に思い至っていないように見える。ただし、映画監督が思い至らないことに一般視聴者が思い至ることは普通ないので、これまでゴジラの咆哮に意味を求めた視聴者もいなかったのではないだろうか。つまり、この可能性について気付く者が作る側にも見る側にも皆無だったので、この点が問題として話題に上ること自体がなかった。ところが『ゴジラ-1.0』にはそれがある。山崎監督が明らかに、明確に、それをやったのだ。
それはゴジラが銀座の街を蹂躙するシーンである。四式中戦車がゴジラに砲火を浴びせるが、ゴジラは全くの無傷。ただし、実はちょっと痛かったのかもしれない。「なにすんじゃ、ボケぇ!」とばかりに熱線を吐いて核爆発を起こしてしまう。そうして核爆発の爆風でヒロイン典子が消し飛んでしまい、主人公の敷島だけが生き残る。その場面だ。
呆然と膝をつき振り返る敷島の視線の先に、天を衝いて立ち上がる巨大なキノコ雲を見上げるゴジラの背中が映る。その背中が、ある感情を表しているのは明らかだった。このシーンのゴジラの背中に漂うのは、まごうことなき悲しみだ。ゴジラは深く悲しんでいる。ゴジラは泣いている。ただしゴジラにはそれを認識する知性はない。だから吠えるのだ。訳の分からぬ強いマイナスの何かに突き動かされて訳も分からず吠えるのだ。ここまでのシーンで、ゴジラの咆哮はやり場のない怒り・悲しみ・痛憤そのものだと分かる。だがその後、それはさらに明確で生々しいものとなる。それは敷島も吠えるからだ。敷島は、それこそ獣のように咆哮する。最愛の人を目の前で失った筆舌に尽くせぬ怒り・悲しみ・憎しみ・悔恨・絶望… それらを言葉を介さずに直接吐き出しているかのようだ。そうして敷島の咆哮は、戦争中、至る所で数え切れぬほど繰り返された咆哮なのである。それはたとえ実際の声にならなくても本質は変わらない。愛するものを失った者の叫びが世界を覆っていた。
まずゴジラが咆哮する。それに共鳴して敷島が咆哮する。二つが共鳴するのは周波数が同じだからだ。同質のものでなければ共鳴は起きないという事実によって、あのゴジラの咆哮は敷島のそれと同質だということが示される。そしてゴジラの体は大きい。ゴジラの咆哮も耳をつんざくばかりだ。
ゴジラの咆哮は、敷島の咆哮で示される、戦時中至る所で無数にくりかえされた血を吐くような怒りと悲しみの絶叫の総和なのである。