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ごびらっふ

 小学五年の時のことだ。水曜の五時間目はクラブ活動の時間だった。理科好きだった私は科学クラブに入っていて、水曜の五時間目は本当に楽しみな時間だった。顧問の小田先生はとても熱心な女教師で、生徒たちの無理なリクエストにかなり頑張って応えてくれていた。

 その日の科学クラブの内容は、カエルの解剖だった。前の週に小田先生によってそのように予告され、当日理科室に行くと九つある大きな机のそれぞれに、すでに木製のスノコ状の解剖台が置かれていた。私はワクワクしながら席に着いた。理科室はいつも冷たい空気に満たされていてほのかに塩酸の酸っぱく苦い臭いがする。

 授業が始まった。小田先生の説明のあと、各班にトウキョウダルマガエルが配られた。エーテルを脱脂綿に染み込ませてカエルの顔に当てると、どの班でも小さな抵抗に会いあちこちでわずかな悲鳴が上がったが、じきに彼らはおとなしくなり、やがて完全に麻酔の中に落ちた。

 解剖が始まった。カエルを仰向けに台に乗せ、手足にピンを刺して大の字に固定する。次に腹を開くのであるが、カエルの腹の粘膜は柔らかすぎてメスでは切れないので、解剖バサミで開く。すぐに内臓の全容が見え、しばしそれを観察する。タイミングが良ければ肺は膨らんでいるのだが、私の班のは萎んでいた。

 次に内臓類を一つづつ切り離して観察する。シャーレに置くとペトッとしてしまうので、水を入れたビーカーに投入して漂うそれの形状を確認する。全くと言っていいほど血液が出ないことに少し驚く。アレを取りコレを取りし、やがてカエルの腹は空っぽになった。

 今、解剖台の上にいるのは、頭部と骨格と筋肉だけのソレだった。ピンセットで口を開けると向こう側の友達の顔が見えた。

 解剖は終わった。子供達に腹の中をいじり回されたカエル達は、冷たく静かに解剖台の上に横たわっている。小田先生が
「北道君、今日は君が当番だから、カエルをどこかに埋めてきて」
と私に言った。あちこちの班の解剖台からカエルの手足に刺さったピンが抜かれた。

 そうして恐怖が始まった。

 あちらの班でもこちらの班でも、ピンを抜かれたカエル達はみなクルッと向きを変えた。カエルの正しい格好できちんと座って見せた。彼らは死んでなどいなかった。授業が終わる頃には麻酔もすっかり覚めていた。そうして元気に飛び跳ねだしたのだ。

 まだ生きている…

 教室は阿鼻叫喚に包まれた。女子の何人かは泣き出してさえいる。私も少なからず背筋に寒いものを感じたが、無類の理科好きで様々な本を読み色々と知識もあったので、そういうことも有り得るだろうと頭で事態を受け入れた。掃除具ロッカーからカナバケツを取ってきて、全ての班からカエル達を回収して回った。

 彼らは少しく身軽になってジャンプ力が増していた。気を抜けばすぐにバケツのへりに取り付いた。その度に私は彼らの尖った鼻を小突いて奈落の底に落とさなければならなかった。

 まだ生きている…

 全て入った。私はカナバケツを小刻みに揺らして彼らが脱走するのを防ぎながら走った。途中、物置きからスコップを取り出す間も右手のバケツは揺らし続けた。そうして体育館の裏が適当と目ぼしをつけて、大急ぎで穴を掘った。

 まだ生きている…

 そうする間も内臓のないカエル達は飛び跳ね回ってバケツの縁に取りつこうとし続ける。私は時々スコップの先で彼らを諦念の底へ突き落としつつ穴を掘り続けた。

 まだ生きている…

 体育館裏の地面は固く思うように穴は深くはならなかったが、彼らの脱走の試みを挫くには、私の精神がもう限界だった。頭の中の合理性がどんなになだめすかしても、感情が耳を塞いで悲鳴を上げ始めていた。

 穴の深さが30センチほどになったところで、スコップを右手に持ったまま左手でバケツを摑むと頭と骨と筋肉だけの彼らを穴の中に放り込み、間髪入れずに上から土をかけた。それは生き埋めと言えば生き埋めであるが、そもそも心臓も肺も無いカエル達は生きていると言えるのか。私は彼らが飛び上がるよりも早く気が違ったように土をかけた。潔く静かに死んでくれることだけを祈っていた。

 掘った土を全て戻した。中身の無いカエル達を全て埋めた。念を入れてスコップの背で土を何度も叩いた。ようやく人心地がついたと思えたその瞬間、土が動いた。彼らは決して息絶えてなどいなかったのである。やがて全身土にまみれたカエル達が続々と墓から這い出てきた。

 まだ生きている…

 そうして彼らは、腹が切り開かれ鼓動も呼吸もできない苦痛などまるで気にしないかのごとく、指先の丸い人のような形の手で、しきりに目についた泥を払い続けたのである。

 後にも先にも、私はあれ以上の恐怖を感じたことはない。それは誰かが考えたオカルトなどという脆弱なものでは全くなく、怪奇現象などという曖昧なものではサラにない。あれは、四の五の言わせぬ、“生”というもの自体の底知れぬ恐怖であった。人々が口々に賛美し、私自身の中にあり、そしてあなた自身の中にある、ドロドロとして、得体の知れぬ、“生”の実体の恐怖であった。


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