「親ガチャ」というキチガイの呪詛
「共通テストの倫理に「親ガチャ」想起させる問題、なぜ出題? 予備校関係者や大学教授に聞く背景」
(ねとらぼ)
昨今、「親ガチャ」なる言葉と言うか表現を、何の考えも無しに使う者がいるが、キチガイである。
「キチガイ」「気違い」「気狂い」
これらは差別的表現だとか言われるが、「親ガチャ」などという最低最悪な表現を事もなさげに発するなど、狂気の沙汰である。
「キチガイ」「気違い」「気狂い」
これ以外にどの様な評し方があるというのだろうか。
いや、ある筈が無い。
「親ガチャ」
何度見ても何度聞いても醜悪である。
「親ガチャ」
これは、自由であり資本主義的(詰まり、私有財産権が尊重される状態)であり民主的な社会を維持する上で不可欠な、道徳を破壊せんとする呪詛である。
左翼、全体主義に傾注するメディアや公教育機関が、好んで使うのも頷けるというものである。
道徳の根源は何かと言えば、それは、宗教である。
例えば、目の前の男を殺しても完全犯罪が成立する事は明白であり、殺せば2億円入りのキャリーケースが手に入るとした場合に、「敢えて」殺さないという選択をする。
これは理屈では無い。
理屈で無い事に価値を見出す。これこそ宗教である。
キリスト教には十戒がある。
神道には戒律が無いと説明される事が多いが、敬神の綱領というものがある。
これらは道徳の基礎である。
これらは命令である。損得勘定し、受け入れるか受け入れないかは個人の自由とか、その様に下世話なものでは無い。
社会から道徳が失われれば失われる程、社会を維持する為に法や規制が必要になる。
法や規制が増えれば増えるほど、その運用に掛かるコストが増大する。利権も生まれる。経済力のある者は巧妙にすり抜ける一方で、善良な一般大衆が思わぬ所で足を掬われる。
この様な事態に陥らない為にも、道徳は必要である。
キリスト教の十戒では、親を敬うべしという明確な記述が存在する。
神道では敬神の綱領に、「神の恵みと祖先の恩とに感謝」という一文が存在する。
何方にも共通して言えるのは、自分がこの世に生を受けた由来に感謝し、報恩すべしという事である。この精神が子々孫々に受け継がれる限り、自分の生まれた由来そのものにケチを付けるなどという、背徳の侵入を許す事など有り得ない。
キチガイである。
先ず、大学入試で「倫理」などという科目が存在する事自体、正気では無い。
倫理や道徳を子供に教えるのは親の責務である。それを、学校教育の一環として考える事自体が大きな間違いである。
キチガイである。
平等の為に富の再分配などと、完全なる全体主義思想である。もうちょっと隠せ。
キチガイである。
抜粋した一文は、公教育が全体主義プロパガンダと化している事を如実に示すものである。
キチガイである。
「親ガチャ」などという表現がなぜ駄目なのかを考えさせるのなら、まぁ、それを大学入試でやるか?という疑念はあれど、キチガイとまでは言わない。
しかし、向かせようとしている先は全体主義思想そのものである。
この馬渕とかいう左翼は、中央学院大学商学部の教授などとゴツい肩書きを纏っているが、実態はキチガイ野郎である。
キチガイである。
先代から知識や財産を受け継ぐ事で、人類は進歩してきた。それを真っ向から否定する、醜悪なプロパガンダである。
個人の出自や性別では人生が決定されない世界とは何か。それは、次代に資産を引き継ぐ事を許されず、全ての私財が当局に没収される世界であり、個人の努力による成長が認められない世界である。
「住みたいかどうか」では無い。
その様な世界を忌避すべきものと認識出来るようにする。それが本当の教育である。
「親ガチャ」
これは、自由であり資本主義的(詰まり、私有財産権が尊重される状態)であり民主的な社会を維持する上で不可欠な、道徳を破壊せんとする呪詛である。
左翼、全体主義に傾注するメディアや公教育機関が、好んで使うのも頷けるというものである。
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