「哲学小説」というジャンル名の提案
小説は、純文学と娯楽小説に分けられるらしい。
だから、日本には「芥川賞」と「直木賞」がある。
芥川賞は純文学に送られる賞で、直木賞は娯楽作品に与えられる賞だ。
しかし、「純文学」とは何か?
芥川龍之介と谷崎潤一郎の論争、「小説に筋の面白さは必要か?」という議論に、芥川は「筋の面白さで小説の価値は決まらない」と言っている。そんなことだから、芥川賞がつまらないけどテーマの深い作品に与えられる賞になり、直木賞は娯楽小説に与えられる賞になった。しかし、直木賞の選評なども読んでみるとけっして筋の面白さだけを評価しているわけではないようだ。直木賞は芥川賞以外の作品で良い小説に賞を与えているように見える。
私が思うに、芥川賞のような文学作品を、純文学ではなく「哲学小説」と名称を変えたほうがいいと思う。哲学ならば筋の面白さは関係ない。そうだとしたら、諏訪哲史の『アサッテの人』とか円城塔の『道化師の蝶』も芥川賞としてそれらしいものと思われる。
私は芥川龍之介の『羅生門』が好きなのだが、あれは筋も面白い。芥川が「筋の面白さでは決まらない」と言ったのは、自分が筋の面白い小説を書けるから、その余裕から出た言葉にも聞こえる。谷崎の『刺青』とか『春琴抄』は抜群に面白いが、『細雪』が抜群かというとそうではない。谷崎としては、筋の面白い小説への敬意があって、筋の面白さを文学に必要なものとしたのだろう。
私も筋の面白さを重視する人間だ。
カフカやカミュを面白いとは思わない。ただ、深いことは認める。
カフカやカミュは日本ならば芥川賞の対象だと思う。つまり純文学だ。しかし、文学、小説の王道を古来から考えるならば、「面白い物語」であることは必須だと思う。小説の価値は普通に考えるならば筋の面白い作品の中でテーマが深いとか、文章が美しいとか、筋に肉付けされたものを評価するべきだ。いや、筋はテーマに直結しているとも言えるのはもちろんだが、筋をテーマに肉付けしたような作品は「哲学小説」と呼んだほうがいいと思う。
私がなぜこのような文章を書いたかというと、昨日書いた短編小説を「哲学小説」と銘打っていて、たしかに他の例えばファンタジー小説を書くときと考える脳が違うと感じるので、そのように名付けた。
ジャンルの狭間にはグレーゾーンがあるが、しかし、先に挙げた、諏訪哲史の『アサッテの人』や円城塔の『道化師の蝶』は完全に哲学の脳で書かれていて読むのも哲学の脳みそだと思う。綿矢りさの『蹴りたい背中』などとは違う。『蹴りたい背中』は筋が特に面白いというわけではないが、哲学脳で読む小説ではない。哲学と文学は違うのにそれが混同されているところが現代文学の良くないところだと思う。サルトルがノーベル文学賞を拒否したのは良いことだったと思う。サルトルは哲学者だ。その垣根をきちんとするためにも、「哲学小説」という名称は必要な気がする。これは新ジャンルではなく、もともとそういう名称があっても良さそうなのに、なかったがゆえに文学界が混乱していたから、このような名称が必要だと私は考えた。
もう少し、芥川賞、直木賞の在り方を考えた方がいいと思う。
ちなみに私が、ここ二十数年の芥川賞、直木賞の読んだものの中でいちばん良かったと思うのは、東野圭吾の『容疑者Xの献身』である。
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