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静岡県立美術館に行ってきた。


今日、静岡県立美術館に行ってきた。
私は静岡県民であるから馴染みの美術館である。
しかし、何度行っても、エントランスの吹き抜けのホールが私は好きだと思う。あの無駄に広い空間が、実にいい。こういう物がこの世に存在することは現代の美術界の力が私たちに多くの潤いを与えてくれていると思う。
現在、この美術館でやっている企画展は、ヴェネチアの画家、カナレットの美術展である。美術デザイン科の高校に進んだ弟が修学旅行でイタリアから帰ってきたとき、「カナレットが良かった」と大いに気に入っていたので、私の中でも特別な存在になっていたと思う。そのカナレットが静岡に来ている、行かねばと思った。
実は今日、静岡の街に出たのは、パンツを買うためである。ただのパンツではない、登山用の速乾性のあるパンツである。
そのついでに私は静岡市街にある市立美術館にも行った。「西洋絵画の四百年」ということで、そこにもカナレットの絵が一枚か何枚か忘れたが展示されていた。しかし、私は市立美術館の方は覚えていない。
そのあと、ラーメン屋に行こうと思って、商店街に出たら、お目当ての店は客が並んでいたため、待つのは嫌だと思い、駐車場に戻って車に乗り、日本平にある県立美術館に向かった。途中でラーメン屋はないかと探しながら行ったが、ちょうど中華料理屋があったので入った。台湾料理の店だった。台湾料理屋は安くてボリュームがあるのがどこに行っても特徴だと思う。私が食べたラーメンセットも、ラーメンとチャーハンで八百八十円だった。味も悪くない。
さて、腹を満たした私は芸術を求め、県立美術館へ車を走らせた。今日は午後から雨が降る予想だったので、車は入り口に近い駐車場に置いた。この県立美術館は、第一駐車場から本館までのプロムナードを散策するのが魅力のひとつだが、何度も行っている私は傘を持たずに、雨が降ってもダッシュで車に逃げ込める入り口に近い駐車場を選んだ。傘を持って行けばいいのにと思う人もいるかもしれないが、なんとなく手ぶらで行きたかった。
カナレットは良かった。
しかし、順路を進むにつれ最後の展示スペースが、ターナーやモネのヴェネチアの風景画が展示されていたのが、私には少し「?」と思った。
展示の説明でもあったが、近代になると、アカデミズムから画家が解放され、自由に個性ある作品が生まれたとある。自由主義の私たちにとってなんとなく、モネやターナーの方が絵としては美しいと思ってしまいがちだと思う。実際、あとで売店の土産物を見たら、カナレットの美術展なのにモネのグッズが半分くらい占めていた。カナレットの美術はアカデミズムだからダメなのか?というわけでもないが、日本人の一般的感覚として、私も含めて、印象派以降のほうがいわゆる「美しい絵」の基準であると思う。モネの睡蓮、ターナーの蒸気、あのグラデーションが綺麗だというのは、オーロラを見て綺麗だというのと同じレベルだ。アカデミズムでないならば私でも描ける。アカデミズムとは人類が世代を超えて築き上げてきた遺産であると思うので、頭ごなしに否定するのは良くないと思う。
さて、カナレットを見終わったら、常設展示されているロダンを観に行った。この静岡県立美術館の目玉であるロダン館である。そこには『地獄門』や『考える人』『カレーの市民』などが展示されている。


地獄門


その『地獄門』を見て私は昔、学生の頃、知識人になりたくて、そのためには必読の書と言われる物は読まねばならないと読書を貪った嫌な記憶を思い出した。ダンテの『神曲』、それに似た形態のゲーテ『ファウスト』、カント『純粋理性批判』、ヘーゲル『精神現象学』。権威が私を押しつぶしていた。知識人になるには夏目漱石を全部読まねばならないのか?いや、知識人とは何か?そういう人種がいるのか?
今の私にはわからない。
『地獄門』の上には小さな『考える人』がいる。彼は何を考えているのか?私は知識の地獄門に入るか入らないか迷っている若者を想起した。自分の好みじゃないし興味もないが、知識人になるためにダンテの『神曲』を読まねばならないか、それともその時間を使って好きな女の子とデートしようか?どちらのほうが有意義だろう?女の子とデートなど無学な人でもできる、だから、知識人になるために『神曲』くらい読んでおかねばならない・・・?
もちろん両方やればベストかもしれないが、ダンテという男はほとんど話をしたこともないベアトリーチェという女を熱烈に恋してそれを『神曲』という作品にしたらしい。だから、そんなものを読んでいたら現実の恋の邪魔になるかもしれない。それでもダンテは権威なのだ。
よく、文学や宗教などを知らない人で「そんなもの古い」と言ってそういう類いの本を全否定する人がいる。そういう人は、そもそもその類いの本の内容を知らない。第一、新しいから良いという考え方を古い物を知らないのに持つことはただの無知に私には見える。私は読書をして女の子とデートしなかった人間だが、私の場合、読書を始めるのが遅かったのである。中学三年生でマンガの深い物を読むようになり、高校一年生でようやく活字の本を読み始めた。しかも、それが司馬遼太郎である。エンタメだ。純文学や哲学書を読み始めたのは十九歳、大学に入ってからだった。もし、小学生のうちから文学などの読書をしていれば、もう少しマシな人生を生きられたかもしれない。知識は人を育てる。しかし、権威主義になるのはいけない。私が大学生の頃、権威主義に陥ったのは子供の時の読書不足が原因だと思う。『ドラゴンボール』などを愛読していた中学生の私は、本気で、人間の強さはケンカの強さだと思い込んでいた。同世代の男を見れば、自分とどちらが強いか、という方向に思考が及んだ。そして、自分の弱さを感じ自信を失っていた。そういう私には読書は必要だったと思う。女の子とのデートとの二択ではなくて、読書は誤った価値観を正すのに必要だと思う。しかし、そこにアカデミズムはどの程度幅をきかせるべきか?多くの読書をしない人たちはその点で読書の門を叩かないのである。「夏目漱石?ふん、偉そうに!」そうして無知は無知のままになりがちである。
たしかに私は権威主義に負けたが、四十代の今、それを後悔しているかというと、まんざら後悔もしていないのである。女の子と遊ばなかったことは後悔と言うほどではないが、自分の人生に足りない点だと思うが、四十代で前を向いて生きることに決めると、読書の経験が非常に力になってくれるような気がする。私は地獄門をくぐり、煉獄から蘇ったように思う。煉獄あるいは地獄は一度経験するとそれ以下には落ちないことがわかるので、後は上がるだけだと覚悟が出来る。だから、地獄を経験しろと若い人に言うのではなくて、読書をしておけば地獄に落ちず、恋愛にも役に立ち、良い人生を生きられると思うよ、と言いたいのである。
読書の門は、読み方次第で、地獄門ではなく天国への門にもなり得ると思う。

考える人

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