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哲学書の間テクスト性と哲学史

私はデリダの『グラマトロジーについて』でルソーの『言語起源論』を知った。そのおかげでルソーの『社会契約論』がわかった。そして、先に読んであったアリストテレスの『形而上学』の影響をルソーが強く受けていることを知った。
古い哲学書を先に読んでおくと新しい哲学書がわかりやすくなる。
しかし、私の場合、新しいデリダを読むことでそれよりも古いルソーがわかった。古い哲学書が新しい哲学書に影響を与えることは言うまでもないが、新しい哲学書が古い哲学書に影響を与えることもあるかもしれない。
例えば、先に新しいマルクスを読んでから、古いヘーゲルを読むのと、マルクスを読まずにヘーゲルを読むのとでは、読み手にとってのヘーゲルは全然違うものになるかもしれない。そういえば、私も、ヘーゲルがカントの『判断力批判』を失敗作であると言っているらしいといろいろなところで読んだために先入観があり、結局、カントの『判断力批判』を読んでいるときに「これは失敗作だ」という意識が邪魔して、うまく読むことができなかった。
喩えを考古学に変えるとわかりやすいかもしれない。
縄文時代の遺跡に誰かが最近作られた偽物の縄文土器を埋めておくと、それを発見した学者が本物と信じた場合、歴史が変わってしまう。それは過去の事実は変わらないのだが、私たちの認識する歴史は変わってしまう。
哲学書も同じで、新しい哲学書を先に読んでいると、古い哲学書の解釈が変わってしまうことがよくあると思う。

ちょっと話が変わるようだが、私は登山が好きだ。しかし、行った山の知識はあるが、行ったことのない山の知識はない。日本百名山を知らないし、どこにどんな山があるのか知らない。そのため、登山が趣味だと言うと、本当に登山に精通している人が、こっちが日本の山をすべて知っていることを前提に話してきたりすると非常に困る。
私の哲学も同じようなことが言えて、私は哲学を全部知っているわけではない。大学の哲学科を出てはいるものの大学院など行ってないし、もちろん教授でもない。
私は登りたい山だけに登り、そこだけの知識が身につく。
読みたいと思った哲学書だけ読み、読んだことのない哲学書は知らないし、知らなくてもいいと思っている。
登山家に「俺はこんなにたくさんの山に登ったんだ」と誇る人がいると思う。
同じように「俺はこんなにたくさんの哲学書を読んだんだ」と誇る人もいると思う。
しかし、哲学とは考えることが大事であって、読んで哲学者の言っていることを理解することだけでは足りないと思う。

私は哲学史の中の一部の哲学書を読み考えている。
たくさん読んだ人が私の書いた文章を読めば無知に思えるかもしれない。まあ、どう思われてもいいのだが、「古今東西の哲学書を全部読んだ」という人は一人もいないだろう。だから人は多かれ少なかれ無知なのだ。

哲学史を書く場合、知らない哲学者については書けない。
ところで先に述べたように、哲学書は、過去の哲学書が新しい哲学書に影響を与えることがあるが、新しい哲学書が古い哲学書に影響を与えることもある。ヘーゲルの歴史哲学のように弁証法では語れない。
西洋哲学史はタレスが「万物の根源は水」と言った時から始まると言われるが、必ずしも、タレスの哲学にアンチテーゼが現れ、アウフヘーベンされて来たわけではあるまい。時間は過去から未来に向かって一直線に進んでいると考えるならば、哲学史をそのように考えがちなのだが、哲学に関しては、古い哲学書が新しい哲学書に影響を与えるのはもちろん、新しい哲学書が古い哲学書に影響を与えることがあるのだから、哲学空間の時間は過去から未来へ一直線に進んでいるとは言えず、哲学史も、過去から未来へと一直線上に哲学者を並べるべきではない。
人それぞれ「私の哲学史」を持つことはできるが、客観的絶対的哲学史は存在しない。
時系列に並べられた哲学者は歴史上の人物ではあるが、その歴史は哲学史ではなく因果律のない哲学者のカタログにすぎない。

哲学史は個人的なもので、個人の哲学を形成していくうえで影響を受けた順番に、哲学者なり哲学書なりが積み上がって行くものだと私は考える。



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