ブルデュー『ディスタンクシオン』を読んで日本の社会階層を考える
ブルデューというフランスの社会学者の『ディスタンクシオン』という本を昔読んだことがある。その書評というか、思ったことを述べたいと思う。
まず、この本の要旨は、現代フランス社会に暮らす人間は平等であるのに、趣味の世界では社会階層が生まれている、そういうことだと私は記憶している。ブルデューは執拗にアンケートをとり、その人の職業を必ず情報として得て、その職業の人の例えば、「何人映画監督を知っているか?」みたいに趣味を調査するのである。そうすると、統計として、例えば大学教授では映画監督の名をたくさん知っている人が多く、肉体労働者では少ない、みたいな結果が出るという。結論として趣味の世界では職業により社会階層ができているというのである。
しかし、私はこの研究は結論ありきの研究であったような気がする。父親あるいは母親が大学教授の家庭と、肉体労働者の家庭の雰囲気を想像してみると、偏見だが、大学教授の家のほうが優雅な暮らしをしていそうなイメージができる。こんなものは誰だって簡単に想像できる。ブルデューが調査するまでもないことである。
ブルデューだったか、他の社会学者の本だったか忘れたが、こういう見えない文化的社会階層が、自由社会において、見えないカーストが形成されていくという。私はこのことを非常に重く受け止めている。
日本の社会学者で日本の学歴社会を論じた本がある。これはブルデュー由来の系統の本だと思うが、親の学歴と子の学歴の関係を調査した本だったと思う。その中で、親が大学卒だと、子は大学を出なければならないと思い努力する。しかし、親が高卒だと、子は親が高卒だから、自分も高卒で充分だという気持ちになる。中卒も同じことが言える。そして、考えればすぐにわかることだが、大卒と、高卒と、中卒のそれぞれの者が、どのような職種に就くか?また、その職業から得られる収入はどれだけあるか。そう考えると、大卒が高卒より収入が多い傾向があるのは想像に難くない。こうして見えないカーストが日本社会にはできていく。これは能力によるカーストではなく、生まれによるカーストである。誰でも努力次第で出世できる自由社会であるのが前提の日本社会には見えないカーストがあり、低いカーストにある者は、能力があるにも関わらず、出世する努力をする気が起きず、低いカーストに留まりがちである。
日本国憲法は誰もが平等であることをうたっているが、それを詳しく見ると、誰にもチャンスが平等にあるという内容である。これは資本主義と平等主義の妥協の産物であり、実際の社会の状況が反映されていない。誰にも金持ちになるチャンスが平等に与えられている社会が自由な社会なのだろうか?そこには、金持ちになれない負け犬の存在がないだろうか?自由競争社会は勝つ者もいれば負ける者もいる社会である。誰も負けない社会が重要であるのは明らかである。
また、ブルデューに戻るが、趣味の世界には本来社会階層はないはずである。それができてしまっているのが日本の現状で、もちろん趣味のカーストはないとは言いたいものだが、ブルデューの調査は間違っていないと思う。
私は介護士をしているが、介護士というものは社会的地位は高いとは言えない。そこに就職して驚いたことはそこの若い女性職員のほとんどが、ディズニーのファンであり遊びに行くのはディズニーリゾートかUSJなどであり、あるいはアイドルグループのファンであったりした。女性職員だけでディズニーリゾートに行ったこともある。文学とか美術とか、「高尚な」話をできる職員はほとんどいなかった。今私は「高尚な」と括弧をつけた。これは趣味に高尚も低尚もないと思っているからで、ディズニーの生み出す「夢」も価値があると思うからだ。しかし、ディズニーやUSJのような夢の国を一様に好む人々の趣味の在り方には疑問がある。ある高校を出たばかりの若い介護職員が『アナと雪の女王』を当時観てきたと言うので、私は「どうだった?」と訊いたら「いまいち」と言っていた。十八歳にもなれば、ディズニーアニメに満足できないのは当然である。しかし、ディズニーの作り出す夢は魅力がある。彼女らは学問がないから「夢」に執着するのだと思う。多様性のある社会を目指す政府がある一方で、画一化した夢しか見られない日本人の若者たちがいる現状は問題である。私が思うに、趣味の世界にも「自分で考える力」が必要でそのためにも学問は重要であると思う。私がここで言う学問とは大学受験レベルのことを言っているのではない。大学受験は同じ教科を学べば同じ知識しか入らない狭い世界である。だから、どこの大学を出ているとかいう学歴で趣味の質が決まるのではない。ただ、ブルデューの言うように、職業で趣味の社会階層ができていることは、国民皆が自覚した方がいいことだと思う。