創作料理。パセリとツナ缶のパスタ
本日、夕飯は自分で料理して食べることにしていた。
私は実家暮らし独身四十代男性であり、七十の母に未だに三食作ってもらっている情けない男だ。
そんな私が、今夜は仕事から帰ったら自分で作るぞ、と息巻いて帰ってきて作ったのが、パセリとツナ缶のパスタだ。
このアイディアは、大学生時代、一人暮らしで、よくツナ缶と塩こしょうだけのパスタを作って食べていて、以外とそのシンプルな味が好きで、しかし、シンプルすぎるから何か工夫を加えたいと前から思っていたところ、今回、風味豊かなパセリを入れてみようと思いついたのだ。
*材料
・パスタ・・・・・・一束半
・ツナ缶・・・・・・二缶
・パセリ・・・・・・三分の二束
・粉チーズ・・・・・適量
・オリーブオイル・・適量
・ブラックペッパー・適量
パスタ一束半の半とは何かというと、本日は仕事からの帰りが遅く、腹が減っていると思い、多めにしたのだ。そのため、ツナ缶も一缶の予定が二缶に増えた。パセリの三分の二束とは一束を百五十円あまりでスーパーマーケットに売っていたのを単位にしている。相場を知る方なら、大体の量はわかるだろうか?私はたぶんパセリを買ったのは人生で初だと思う。それくらい料理は素人だ。
ブラックペッパーは近日中にカルボナーラに挑戦するつもりで買ってあった物を使った。私は先日店でカルボナーラを初めて意識して食べたが、ブラックペッパーの辛さが邪魔な気がした。それでブラックペッパー無しのカルボナーラを作ろうと思い、昨日、本日のツナ缶とパセリのパスタと合わせ材料を買ったときに、香辛料のコーナーで立ち止まりしばらく考えた。「カルボナーラの語源は『炭焼き職人』であり、ブラックペッパーが炭に似ていることからカルボナーラと名付けられた。しかし、俺はブラックペッパー無しのカルボナーラを作ろうとしている。それはカルボナーラと言えるだろうか?いや、これは創作料理だ。俺が好きな物を作ればいいんだ。何もカルボナーラの定義にこだわることはない。いや、しかし、作ってみて味が決まらなかったらどうする?そのとき、手元にブラックペッパーがあれば振りかければいいじゃないか。たった、百何十円の買い物だぞ」。そうして、ブラックペッパーを買った。それがツナ缶とパセリのパスタで生きるとは思わなかった。
まず、パスタを茹でて、パセリをみじん切りにする。熱したフライパンにオリーブオイルを引いて、パスタが茹であがる直前にツナ缶を入れる。パスタが茹であがったら、フライパンに移し、パセリを加えてかき混ぜる。その際、粉チーズを振る。
できたのがこれだ。
しかし、食べてみて、思った。
「塩気が足りない」
今回は粉チーズの塩味だけに頼ることにしていたが、その塩梅が私の中に身についていなかった。私は塩何グラムとか数字で料理をするのが苦手で、だから、調味料は適量という表現になる。
そして、塩気だけではなく、パセリの香りも足りなかった。
「一束全部使えばよかった」
しかし、もう今更パセリを加えようとは思わなかった。
そこで前述のブラックペッパー登場だ。風味はこれで決めようと作戦を変えた。ちなみに私がブラックペッパーを料理で使うのは生まれて初めてである。
塩味は粉チーズをさらに振りかけることにした。
すると、パセリの香りは死んだままだったが、初めてのブラックペッパーの香りに私は目覚めてしまった。次のカルボナーラでも使うことが濃厚になってきた。
総合評価をすると、パセリとツナ缶のパスタは方向性としては合格だ。ただ、そこにブラックペッパーを加えるかどうかが微妙だ。今回はパセリが死んでブラックペッパーが生きた形になったが、両方生きる可能性はあるのだろうか?それにツナ缶の風味も殺してはならない。
いやあ、料理は奥が深い。素人の私が言うのはまだ何十年か早いだろうが、料理は面白いのである。私など呑気なもので、自分の分だけ作って、その評価をああだこうだと考えるのは独身だからかもしれない。世の中の主婦(主夫?)たちは作らねばならないから作るのだろう。それを辛いと思う方は、もったいないことをしていると思う。時短などと言って、レンジでチンして、「さあ、おかずですよ」というのは、果たして人生として豊かと言えるだろうか?あるいは金持ちの婦人で、料理は雇った料理人にさせていて、自分は遊んでいるだけ、みたいな人がいたら、それももったいない。自分で食べる物は自分で作る、こん贅沢はない。
「生きるために食うのか、食うために生きるのか」などという言葉があるが、この「生きるため」というのは生きがいのことを言うのだろうか、あるいは仕事のことを言うのだろうか?私も仕事を成し遂げるために生きることを人生の柱にしている人間だ。しかし、その生きる目標のために、「食べること」を時短などで台無しにしては、なにか人間として本末転倒のことをしていると思う。人間は基本的には「食うために生きている」のである。私のようになにか大きな仕事を成し遂げたい、という種類の人間の方が稀である。働いて稼いだおカネで美味しいものを食べる。当たり前の考え方だ。人間の普遍的な思想だ。その美味しいものを自分で作るというのは基本的な人生態度であると思う。昔は働いている男性が威張っていた。女は厨房で料理をしていればよい、と。しかし、外で働くことと、厨房で料理すること、どちらが人生のうまみを覚える所だろうか?食べるために生きているならば、それを作る女性の方が人生のうまみ、柱を担ってきたと言えるのではないだろうか?カネを稼いでくるのが一家の大黒柱で、料理をするのが、大黒柱を支える役目。逆ではないだろうか?人生を豊かにする食を担う主婦こそが、一家の大黒柱であったはずだ。
女が社会に出るという時代なら、男は逆に家庭に入ることを考えなければならない。共働きは平等ということでいいかもしれないが、そのために「食」が疎かになってはいけない。
人生の豊かさを「食」に置いた場合、自分で料理するかしないかは決定的な違いになると思う。収入が少なくとも料理の腕があれば美味いものは作れる。収入が多くても、どれだけの人間が「フカヒレ」や「トリュフ」を生かす腕を持っているだろうか?私は今回、「パセリ」すら生かせなかった。高級料理店で、単に高級食材を使っているから高い、というのは、料理人の腕を疑うしかない。安い食材でも、それを生かせるのが腕の見せ所だと思う。
私はしばらく、近所のスーパーマーケットで手に入る食材だけで充分楽しめそうだ。なんせ素人ですから。
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