読書の態度
最近、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が文庫化され話題になっているようなので、全集版のその本を持っていた私は読み始めていた。
私はこのフォークナーの系譜にあるような作品はあまり好きではない。しかも一度読んでいる。初読の時はなんとなく全体のイメージがわかればいいと思って読んだが、この小説自体がぼんやりとしていて、そう読むしかないような作品であるので、明晰な頭では読めないと思った。
同じ名前の人物が何人も出てきて、作者まで混乱しているようだったので、これが名作と言われる意味がわからなかった。
そういえば、ガルシア・マルケスのようにノーベル文学賞を受賞しているパール・バックの『大地』という小説も作者が登場人物を間違えて書いていた。そのようなミスがあってもノーベル文学賞をもらえるらしい。アホか。
で、話題であるためとノーベル文学賞受賞者の代表作であるために読んでいる『百年の孤独』は正直読んでいてつまらなかった。これを読めばこの作品を語ることが出来る。そんな気持ちから読んでいた。
しかし、そのような動機で読むのは良くない。
話題だから読む、文壇で評価が高いから読む、そう言った理由で読むのはたしかにきっかけとしてはいい。しかし、途中まで読んでつまらない、読んでいて苦痛だ、と思う物まで読むべき価値があるだろうか?
しかし、通販で注文していた『ダルタニャン物語』全巻が今月末到着するということだったのでそれまでの間、この苦痛である『百年の孤独』を読んで、感想文などnoteに載せようかと思っていた今日、玄関の前に箱が置いてあった。中身は『ダルタニャン物語』全十一巻だった。
しかし、せっかく途中まで再読した『百年の孤独』をやめることもないだろう、『ダルタニャン物語』は逃げないのだから、と思ったが、やはり苦痛より快楽のほうが良い。私はガルシア・マルケスの『百年の孤独』を書棚に戻して『ダルタニャン物語』の第一巻を手に取った。
「まえがき」だけで面白そうだ。
まだ読み始める前だが、こうして読書について報告していこうと思うので読む前に私の気持ちを書いてみた。
『ダルタニャン物語』は『三銃士』として知られている。しかし、『三銃士』は『ダルタニャン物語』の第一部に過ぎない。つまり、『三銃士』は面白いが、続きはつまらない可能性がある。同じアレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯』は最初の脱獄する話は面白かったが、後半の復讐劇はつまらなかった。『ダルタニャン物語』も後半がつまらない可能性は高い。しかし、私は奮発して全巻を一括で購入した。これは読むしかないだろう。
しかし、カネを払ったから元を取るために読むというのは正しい読書家の態度だろうか?せっかく買ったのだから、全部読まなければもったいないというのは正しい態度だろうか?
やはり本という物は面白いから読む。
続きが気になるから読む。
それが基本的な態度だろう。
先に述べたようにきっかけは何でも良いと思う。
しかし、それがいかに世間で評価されているからと言って、つまらない思いをして読むことはないだろう。
マルセル・プルーストの『失われた時をもとめて』やジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』などを評価が高いからとつまらないのに無理して読むことはないと思う。私はジョイスの『ユリシーズ』は読破したが、プルーストの『失われた時をもとめて』は途中でやめた。「読破」という言葉自体、つまらないが名作とされているものを読むときに使う言葉だと思う。面白い大長編マンガを読んで「読破」したとは言わないだろう。「読破」するような読み物はつまらないから読まなくても良いと思う。人生の時間は限られているから、その間に読みたい物を読んで読みたくない物は無理して読む必要はないと思う。
『失われた時をもとめて』を読破した経験のある人はそのことで自分が偉くなったと勘違いしている人もいるかもしれない。しかし、それは権威に屈している、あるいは文学界に御されていると言えるかもしれない。文学者たちが高評価している物をそれに追随するかたちで、高評価するのは芸のないことだ。自分がないとも言える。
私は『三銃士』が好きで、というか、もちろん小説も好きだが、昔、NHKでやっていた『アニメ三銃士』が大好きで、だからその原作である『ダルタニャン物語』を大人買いした。さっそく楽しんで読んでみようと思う。