自分の幸福は他人の不幸の上に成り立っているか?
私は高校受験の合格発表のとき、高校の玄関の前にいました。そこには他にも受験者がたくさんいました。合格者の受験番号が印刷された紙が貼り出されました。私の番号はありました。私はホッとし、拳を軽く握りしめたように記憶しています。周囲にはガッツポーズで喜んで大はしゃぎををする人がいる中で、不合格だったのでしょう、泣いている人がいました。私は素直に喜べませんでした。
中学時代、私は野球部に所属していました。王貞治の本を読んだとき、その内容でまだ記憶に残っていることがあって、それは、「勝って喜ぶな、目の前には負けた敵が泣いているんだぞ」というものでした。これは王の言葉ではなく、その指導者の言葉だったように記憶しています。
私は高校に入ってから素直に高校生活を楽しめませんでした。私の高校は地元ではトップクラスの高校で生徒は選ばれた者という意識を植え付けられていました。
私は悩んでいました。中学時代から仏教的な考え方をするようになっていた私は、自分の幸福は他人の不幸の上に成り立っているのか、と真剣に悩みました。他人とは人間だけではありません、私が食べている肉や魚も私の食事のために死んだ者です。
私は一流の大学に行く、ということに世間の人たちに申し訳なさを感じて、それが勉強の支障になりました。そのうち精神を病んでしまいました。
学校で暗い顔をしていると、担任教師が、「どうした?悩みでもあるのか?」と言ってきました。悩みでもあるのか?この世の中は悩みの種ばかりじゃないか、こんな世の中で悩みなく生きることが出来るなんてどうかしてるぞ、と私は思いました。
私は統合失調症という病気だったのですが、その苦しみの中で大学受験をしました。一浪してなんとか大学に入ることが出来ました。高校入学時に意識した一流の大学ではありませんでしたが、病気の私には精一杯の結果でした。
私は大学で哲学を学びました。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読みました。「超人は同情によって没落する」「超人は悩み苦しむ弱い者を笑って飛び越えて行く」などという考えが私の心に強く訴えてきました。それでも私は納得できませんでした。
仏教を学びました。「回向」という概念を知りました。それは悟りをひらいて成仏するのではなく、自分の積んだ善根を周囲に振り分けるというような意味だったと思います。自分ひとりが成仏するのではなく、世界中の人が成仏できるようにすることです。私はここから自分なりに考えて、「幸福な人は、存在するだけで周囲を照らすのではないか?」「他人の不幸に同情し自分までも不幸になっては意味がなく、幸福であることが周囲の人々を幸福にするのではないか?」という考えに至りました。「不幸な人は幸福な人をモデルにして努力する」というわけです。
私はそれ以来、他人の不幸に同情する前に自分の幸福を考えるようになりました。もちろん、「利己的にならず他人のために尽くすことが、かえって自分の幸せになる」という考えも知ったうえでのことです。どうしたら自分が幸福になれるかを考えることは、どうしたら周囲の人を幸福にできるかを考えることでもあります。
私の考えは自由競争社会の原理には合いません。私は高校生の頃から、受験や就職などで勝ち組になることを考えず、世の中の幸福と不幸を真剣に考えたことに誇りを持っています。
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