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「将来の夢」「物語」「世間体」という心のリハビリの道具

私は四年制の大学を卒業したのに定職に就きませんでした。統合失調症という病気を抱えていたからですが、それでは世間体が悪いため、パートで就いた職場にはそのことは伏せてありました。

三十歳近くなったとき、農業の手伝いをしていたら休憩中に、農家の主人から「大学は何学部に入ってただ?」と訊かれ、「文学部です」と答えると、「文学部を出ると何になれるだ?小説家にでもなるだか?」と問われました。私はそのとき小説を書いていましたので、「はい、小説家を目指しています」と正直に答えました。すると農家の主人は、「じゃあ、本が出たら買うからサインしてくれよな」と言ってくれました。私はこの時まで小説家になりたいという自分の夢をほとんど公開していなかったので、言うことで楽になった気がしました。小説家になるという将来の夢がなかったら、私は精神障害者で一般就労が困難なため、このような肉体労働のバイトをするしかない、など、いちいち込み入った話をしなければならないところでした。その後も就職の面接で、将来の夢があるか訊かれると、私は小説家になること、と答えていました。しかし、就職に関して言えば、これは逆効果で、じゃあ小説家になれたらうちの会社は辞めるのか、となり、辞めます、と言えば、不採用です、となります。面接に関して言えば、「いろいろな仕事をすることで社会経験を積みたかったので定職には就きませんでした」などと言ったほうが、好感度は良いようでした。

世間体を保つということは、アイデンティティを保つということにおいて非常に重要であると思います。精神病で無職の人は、この世間体を保つための建前(将来の夢など)を持った方が生きやすいかと思います。

そして、私の思想は、この世間体に向かって病気である自分をすり寄せていくというものです。世間体になっているものが目標で、私の場合、小説家を目指している自分がそうです。世間体に向かって自己実現していくのです。

しかし、将来の夢とはなかなか叶わぬもののようです。私は十五年以上小説を書いていますが、なかなか売れません。しかし、目指しているだけでも、私という人間を紹介するときに便利なのです。話し相手に自分が精神障害者であることを告げるのは抵抗があります。相手がどう私を見てくれるかわからないからです。それに私は自分を精神障害者ではないと思うことにしています。身体障害と違い、精神障害とはそれを治すために心の中から変えていかねばなりません。だから、自分は健康であると自分を騙し、世間を騙すのです。騙された自分はいつのまにか健康な小説家志望の男になれると思います。世間体を立てるとは自分を欺くことです。夢を見るとは現実から目を背けるということです。しかし、精神障害者であることが現実で、小説家になることが妄想であるとしたら、私は絶望するしかないでしょう。しかし、現実を見て絶望すべきだ、というのもおかしな話でしょう。夢を叶えるとは、夢を現実にすることです。私が小説家を目指しているということは現実です。現実というものはいかようにも解釈が可能です。病気で死にたいくらい苦しんでいる人は多くいます。しかし、そんな自分にこそ将来の夢を使って嘘をつけばいいと思います。「私は○○になるんだ」と自分を騙すのです。その夢の途中で少し病んでしまったことにすればいいと思います。ハッピーエンドの物語の途中であると信じるのです。信じればその物語の途中であることが現実となるでしょう。なぜなら心の中など、「これが現実の心」と客観的に定めることはできないからです。そして、その物語に自分をすり寄せていけば、きっと「夢を追いかける現在の自分」を手に入れることができると思います。目標は達成できなくても、自分が望む自分として生きたなら、あとから振り返って自分が満足できると思います。

それから、将来の夢というものはいくつあってもいいと思います。将来の夢に向かってひとつの道を一途に進んで行くだけではなくて、複数の将来の夢に向かって複数の道を同時に歩いて行けばいいと思います。

私は現在、統合失調症がだいぶよくなってきていて、そのせいか、病気になってよかった、とさえ思うようになってきています。もし、病気にならなかったらどんなに幸福な人生だったか、など考えません。もし、病気にならなかったら、病気になって以後、精神科のデイケアや職場などで出会った人とは出会わなかったことになります。私の人生を否定したくありません。私は自分の人生を愛しています。こんなふうに自分が通って来た道を受け入れる余裕が現在の私にはあります。これも世間体に自分をすり寄せ、自分らしい自分にだいぶ近づいて来たからだと思います。

自分の人生は言葉で物語るものです。言葉というものは、使い方によって相手の心に与える印象をいくらでも変えることができると思います。だから自分の好きな物語の中に自分がいることにすればいいと思います。相手に与える自分の印象が自分の好きな自分になるよう、自分の物語を作ってしまえばいいと思います。自分を肯定し、世間体の立つ物語を生きることが良い結果を生むと私は信じています。

人生の最後に、「私は自分の人生に満足している」と言えるよう、精一杯生きたいと思います。

*「世間体を立てる」という言い方は、一般的には好ましくない言い方ですが、私は実際この「世間体」を利用して心のリハビリをしてきました。「将来の夢」「物語」も同様です。これは私の得たテクニックなので、この稿で紹介しました。参考になれば幸いです。

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