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【小説】さよなら、チャタロウ
ブゥゥーーン、と鈍く低い音が鳴って、チャタロウは目を覚ました。
血の匂いとその温度がチャタロウの中で広がっていく。
その中でチャタロウは思い出していた。
チャタロウは世界の形を知らない。だからキリコの輪郭も曖昧なままだ。
チャタロウがキリコの為にできるのはキリコが飽きるまで一緒に生きる事とか、もしくは今すぐにキリコと別れて死ぬことくらいだ。……または殺すとか。その他の全てがエゴでしかない。全てがチャタロウの個人的なエゴだ。
チャタロウは笑った。
チャタロウは思い出していた。
何で彼らを殺したのかと言えば、それは月曜日が嫌いだからと言うのでもいいし、朝に乗った仕事帰りの電車でエナジードリンクの空き缶を握り潰した時に正面の座席に座っていたスーツ姿のサラリーマンが胡散臭げな眼を見た、とかでもいい。
近ごろ流行りの社会正義風に言うなら、世界を形成する健全な人間たちの欲望がホシノ チャタロウと言う存在の不具合を浮き彫りにするとか、その社会に参加する資格を持ち合わせていないから、とか。
とにかく世界はクソだけど、それは他人や世界が悪い訳じゃない。
ただ、チャタロウがチャタロウであると言うだけで愛してくれる存在と一週間を生きる方が、この先にある何十年をデスクに座ってパソコン叩いて終わるより遥かにマシだ。
チャタロウはそう考えていた。
痙攣している老婆を抱えながら、老人は「地獄に落ちるぞ」と叫んだ。その叫び声は掠れていた。どうやら俺は生きているに値しないらしい。
「もっともだ」
老人たちはひとつの塊みたいになって、チャタロウは笑った。
チャタロウは思い出していた。
キリコが「あ」と声をあげて指をさした先は高いフェンスで、その先端には猫が座っていた。心細いのか、しきりに鳴き声をあげている。
チャタロウは少し考えてから石を拾い上げて投げつけた。三つ目の石が猫に当たって猫は鋭い悲鳴を上げるとフェンスから落下していった。
「何でそんなことをするの?」
キリコは信じられないと言う風に非難したが、チャタロウは表情を変えずに落ちた猫に近づくと、落下した猫の額に咥えていた煙草を押し付けた。チャタロウの鼻腔にたんぱく質の焼ける厭な臭いが広がっていった。
目を逸らすキリコに対してチャタロウは
「猫には未来が無いから」
と言った。
キリコはチャタロウの顔を見てそれがどういう意味か汲み取ろうとしたが、少しだけ考えて今は無理だとあきらめた。
「だからあの人たちを殺したの?」
そうだよ、と答えた時にチャタロウは自分が笑っている事に気づいた。
「キリコが安心して生きていくには、それしか無かっただろ」
そうだ、社会も他人も信用できない。キリコの元恋人も、その元恋人と同居している親戚も邪魔であるのなら
「それしか無かっただろ」
もう一度、声に出した。
自分を納得させるような声だな、とチャタロウは思った。
キリコはそれに答えず「仕事、どうするの」と訊いた。
「どうとでもなるさ」
日がな一日デスクに座ってパソコンと向かい合う。誰が見ているとも知らないテレビ番組のテロップを張るだけの仕事。スーツを着られる訳でもなく、かと言ってチノパンやブルージーンズを履く自尊心すら持ち合わせていない人間にピッタリの仕事だ。
チャタロウは笑ってキリコを見た。
キリコの視線、手指の動き。重心の動かし方。その他の些細な変化に何かの意味を見つけようとする。例えばキリコがチャタロウに向ける愛情みたいなものとか、または世界の終わる予兆とか。
「安心したかっただろ」
歩き出したチャタロウはキリコを振り向いて訊いた。
キリコは少し考えてから頷いた。
「もっと安心したい」
チャタロウは笑った。
チャタロウは思い出していた。
分岐路とか分水嶺とか、雨どいや回路の分かれ目に存在するのは道祖神ではない。それは人間だ。
「安心できたか」
チャタロウは肩で息をしながらキリコに訊いた。
チャタロウの下には男女が折り重なるように斃れている。それはキリコが引きずる長く重たい陰だった。女は犯されて下腹部を刺されていた。自分の上で恋人を殺された男は吐瀉物を喉に詰まらせて窒息していた。
それは、キリコの、陰だった。
「もう誰もキリコを傷つけない」
過去と言うしがらみが長く重い鎖なのだとしたら──チャタロウは深呼吸をした。
あとはもう死ぬだけで済むだろう。
そうなったらキリコと別れる事になるんだなと思って、チャタロウはまた少し笑った。別にそれで構わない。俺が死ぬ時には、キリコは自由だ。
チャタロウはそういった事を思い出していた。
「これからどうするの」
キリコが訊いた。
チャタロウは少し考えて「わからない」と答えた。
「やっぱりね」
キリコは残念そうに答えた。
眠り過ぎたのか頭が重い。まるでニューロンを行き来する情報そのものに錘でも付いているみたいだとチャタロウは思った。疲れているのか、手足も動かせないほどに重い。
「ねぇ、むかしのことは覚えているんだよね」
キリコは悲しそうに訊いた。
「あぁ」
「じゃあ最期に何があったか覚えている?」
最期、と聴いてチャタロウは考えた。
いや、チャタロウは思い出そうとしていた。
キリコはすっかり冷えたコーヒーの入ったマグカップを机に置いた。
チャタロウが入っている箱を、キリコはもう皺だらけになってしまった手でそっと撫でる。あの日チャタロウが猫に石を投げたように、このコーヒーを溢したらチャタロウも消えてなくなる。
「チャタロウはまるで大きい猫みたいだったね」
「キリコがよくそう言っていたのは憶えてる」
チャタロウの音声は答えた。
チャタロウが入っている箱はチャタロウより滑らかな手触りをしてる。
チャタロウが入っている箱はチャタロウより熱い。
チャタロウが入っている箱はチャタロウよりも未来が──
「ずっと一緒だね」
キリコは呟くようにチャタロウに言った。「あぁ、そうだな」チャタロウの音声が答えた。
「安心できたよ」
「それはよかった」
「ありがとう」
「別に構わねぇよ」
「ねぇ」
「ん」
「これからどうしよっか」
「……そうだな、どうしようか」
何度目かの同じ質問はいつもの様に消えてなくなった。
軽くなった私の、私を軽くした、小さくなってしまった私のチャタロウ。
「ずっと一緒にいてよ」
「そうだな」
チャタロウの音声は約束をしない。
世界は小さく狭い。私が軽くなってしまったから。
私がチャタロウを小さくしてしまったから。
「チャタロウは大きい猫だね」
チャタロウの入った箱はファンの回転数を上げて答えた。
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