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【超短編小説】他人エレベーター人生
ベビーカーの中で寛ぐ赤子の足が俺の荷物に当たった。
それは単なる事故であり、別に気にするほどの事では無かった。よくある話だ。
だが母親は即座に
「だいちゃん、蹴ってる、足がぶつかっちゃうから、ちゃんとお座りしよっか」
と言って、サルバドール・ダリの絵画に描かれた時計より溶けて浅い座り方をしていた赤子を、深く座らせ直した。
微笑ましい光景だった。
俺は妻に目配せをして微笑んだ。自分たちが選択しなかった未来、と言うものが仮に目視できたらこんな休日を過ごすのかもしれない。
だがそんな平和な空想を破った者がいた。
「だいちゃんは蹴ったりしてないもんね」
だいちゃんと呼ばれた赤子の祖母と思しき女性が赤子を覗き込みながら言った。
赤子の足がぶつかった、それを蹴りと認識するほど狭量では無い。勿論、そんな事で怒ったりしない。注意もしない。
ガキのした事だ、悪意も何もあったもんじゃない。
気にするなよ、そんなもんだ。
……と言うのを決めるのは俺だ。ババア、お前じゃあない。
ババアは赤子から顔を上げて俺を見ると
「ねぇ〜?蹴ってないよねぇ〜?」
と言った。
俺は自分が怒りで膨れ上がりつつあるのを自覚しながら、妻が袖を引く感覚でどうにか自分を抑え込んだ。
ババアは相変わらず俺を見ながら
「ねぇ〜?だいちゃんは蹴ったりしてないもねぇ〜?」
と繰り返している。
俺はひとつ深呼吸をしてから、家庭災園で買った種の詰め合わせをそっと取り出してベビーカーの隙間に放り込んだ。
八階の駐車場に着くまでの間、ババアはずっと俺に向かって
「ねぇ〜?蹴ってないもんねぇ〜?」
と繰り返していた。
エレベーターのドアが開くと、ベビーカーを押した母親は俺に軽く頭を下げながら降りて行った。
一緒に降りるだろうと思っていた、その祖母と思しきババアは急に静かになると、正面を向いて澄まし顔になった。
そして12階の最上階駐車場に着くと、そのまま何も言わずに降りて行った。
俺も妻と一緒にエレベーターを降りながら、先程のベビーカーに家庭災園で買ったものを押し込んだ話をした。
「まぁ、そう言うもんでしょ」
妻はアッサリと言って、飲み終えたコーヒーカップを放り投げた。
コーヒーカップは放物線を描くと、ババアの頭に当たって弾けた。
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