【短編小説】妖怪毛玉ちゃん
電車が来るのをホームで待っているとき、目の前に立っている女性が着ている濃紺のコートに真っ白い埃が付いているのがみえた。
気になる。
どうにか気付かれずに取れないだろうか。
ゆっくり指を伸ばして爪先だけでコートには触れない様に埃だけをつまんで、そっと引き剥がせば……。
いや、このご時世でそれは危険だ。
伸ばしかけた手を自分のコートポケットに押し込む。
昔からそうだった。
ホームだとか学校や会社の食堂、人気のラーメン屋なんかで並ぶ時に前の人が着ている服に付いた埃や毛が異様に気になる。
それが友人だとか会社の人なら遠慮なく取っていた。
それもこっそりと、気付かれないように。
上手く取れる時もあったし気付かれてしまう時もあったけれど、不審がられる事はなかった。
指先には物証があり、取ってしまえば別に必要なものでは無いから棄てるだけだ。
あの人は一日中コートに白い埃を付けたままだったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら帰宅すると、妻が髭剃りの様なものを手に持って部屋着をいじっていた。
何をしているのか訊くと、毛玉を取っているのだと言う。
傍で見ていると実に気持ちが良い。
着古したトレーナーに発生した大量の毛玉がみるみる刈り取られていく。
新品同様とは行かないが、良く言って使い込んだトレーナーが綺麗になっていく様は爽快感があった。
手洗いうがいも忘れて妻から奪い取るようにした毛玉取り器をトレーナーに当てていく。
他に毛玉の湧いた服は無いかと妻に訊き、週末は家中の服にわいた毛玉を取って過ごした。
妻は喜んだり呆れたり褒めたり気味悪がったりと様々なリアクションを見せたが、まだ満たされなかった。
月曜日の出勤時にこっそり毛玉取り器をコートのポケットに忍ばせて駅に向かった。
師走だからか雨だからか、いつもよりホームは混んでいた。
毎日と同じ様に最後尾の車輛にある3番目のドアまで行って列に並ぶ。
律儀に整列していた人も、溢れかえる利用者たちで徐々にその列を崩していく。
形骸化した列で目の前に横入りする人が出た。
それこそ待っていた人だ。
毛玉だらけのダッフルコート。
轟音と共に電車がホームに滑り込む。そのタイミングでポケットの中にある毛玉取り器に電源を入れる。
手に振動が伝わる。
喧騒と車掌のアナウンスで毛玉取り器の音は聞こえないはずだ。
前に立つ人はまだ気づいていない。
押し合うように乗り込む乗客たちの勢いに任せてポケットから取り出した毛玉取り器を押し当てる。
濃紺のダッフルコートから毛玉が刈り取られていく。
素晴らしい快感が背骨の中を駆け抜けていく。押させる度、毛玉取り器をダッフルコートに押し当てて毛玉を刈り取る。
あぁ、もういっそお願いして全部を刈り取ってしまいたい。
そう思った瞬間だった。
ダッフルコートを着た乗客がこちらを振り向いた。
気付かれたか。
不安が芽生えたと同時に別の欲望が芽生えた。
振り向いたその顎に見えた剃り残された一本の髭が猛烈に気になりだしたのだ。
剃りたい。
気がつくと手に持った毛玉取り器をその顎に押し当てていた。
髭は刈り取られた。
だが手の中にある毛玉取り器はそのままダッフルコートを着た男の顔面の皮膚を吸い込む様に刈り取り、続けて筋肉をも吸い込んで綺麗な頭蓋骨だけにすると満足そうな音を立てて電源を切った。