Re: 【小説】渋{谷THE安全地}帯
おれは臆病なのだ。
結局のところジタバタしたってなにも変わらない。
粛々とやれることをやる、そういう態度こそが人生には必要だと言うことだ。
確率変動は起きない。常に一定の流れがあり、それをどう使うかどうやって時間と言う向かい風をいなしていくかが問題だ。
しかし大抵の人間は何も達成できない。
それでいて過労で死ぬ。
おれは……おれは速度超過で死にたかった。ただハンドルから手を離せなかった。
おれは臆病なのだ。
ヤマハSDRをどうにか車列の隙間に押し込んだ。
それは毒々しい夏魔王のギロギロとした長い尻尾がまだ引きずられている九月半ばだった。
おれは別に煽ったつもりなんて無いのだが車間距離が近かったのだろうか、ロケットカウルをつけた初期型のカワサキNINJAと新幹線風防をつけたスズキGSに追いかけられていた。
甲州街道を走り抜けて笹塚の交差点を左折すると消防学校から聞こえる訓練生たちの凄まじい気合を飛び越えて、おれは大山の交差点を左折した。
そこには長い長い車列があった。
渋谷に通って10年ほどになるがそこに車列を見た事なんてなかった。
初めてのことだ。
ヘルメットのシールドを上げて確認する。
そこに車列はあった。
長い長い車列だった。
どう見ても代々木上原駅の陸橋を潜り抜けた先まで続いている。
おれは後ろを見た。
初期型のカワサキNINJAも新幹線風防のスズキGSも来ていなかった。
しかし彼らのアクセスコールだけは聞こえた。
おれは早いところ逃げ切りたかった。
半クラッチを切っても歯ぎしりをしたような振動と音でヤマハSDRがおれに不満を伝える。
アクセルを開いて4000回転まで上げてクラッチをそっと放す。
ヤマハSDRがぬるりと動き出す。
後方で初期型カワサキNINJAの咆哮が聞こえる。
NINJAとは名ばかりのパワー型ゴリラだ。おまけにあんなロケットカウルをつけてちゃ絞りハンドルだってすり抜けられるはずもない。
スズキGSにしたってそうだ。竹槍も三段シートも邪魔でしかないだろう。
やつらの車体にぶら下がっているDEVIL管やKARKARから噴き出るアクセルコールはおれのヤマハSDRを不安にはさせない。
不安になるのはおれだけだ。
おれは臆病なのだ。
だが照り付ける太陽はおれを不安にさせる。
この渋滞はどこまで続いているのか。
苛立った鉄の河馬たち。
その隙間をすり抜けて坂を下ったが車列の始点はそこにない。
さらに坂を上って続いている。
おれはうんざりしながらクラッチを切ってギアを下げる。
ニュートラルに入ったヤマハSDRは緑色のランプを点して一息いれる。
2ストロークの呼吸。
吸って/圧縮、爆発/排気。
繰り返す二呼二吸。
社外製のチャンバーで押し返される爆炎は細いマフラーから飛び出し続ける。
おそらく後ろに並んでいる車の男はカストロールの臭いに顔をしかめているだろう。
渋滞に夏魔王の尻尾。
おまけにカストロールの煙。
朝から冗談じゃあないと言う気分にさせるには十分すぎる条件だ。
そんな時だった。
代々木上原の谷底に溜まった苛立ちを切り裂くように救急車のサイレンが響いた。
カワサキNINJAとスズキGSのアクセルコールすら押し退けられる赤い絶叫。
おれたちの車列は動けない。
だから救急車は対向車線を走る。
激走する救急車は恐らくこの渋滞の始点に向かう。
ゆっくりと動く車列。
車ひとつ分だろうか。
クラッチを切ってギアをローに入れる。アクセルを開ける。
4000回転。
ゆっくりとクラッチを繋ぐ。
SDRは動き出す。上り坂。
クラッチを放さずにアクセルを吹かす。
まるで煽っているかのような雄叫びを上げるSDR。
この坂は長い。車列は進まない。
夏魔王がおれたちを嘲笑う。
おれはヤマハSDRの細いボディを車列の隙間に押し込む。ねじ込む。
苛立つ運転手たち。
意地でもバイクを先に通すまいとライン際まで寄せる車の後ろを抜けて前に出る。
それでも車列は終らない。
坂を上り切ったところでおれは再びシールドを上げる。
山手通りの向こうまで続いている。
この分だと代々木公園を越えて原宿、その先の地平線まで続いているんじゃないかとさえ思う。
うんざりする。
トルクの細いヤマハSDRが咳き込む。おれはクラッチを握る。ヤマハSDRの咳が止まる。
振り向くと車列はさらに伸びていた。
カワサキNINJAとスズキGSのアクセルコールが遠い。奴らもこの車列に巻き込まれた。そう簡単に脱げ出せやしない。
つまりここは安全だ。
奴らに追いつかれることはない。
おれはアクセルをふかす。
ヤマハSDRが爆煙を吐き出す。
後ろの車に乗った男が顔をしかめる。
助手席の女が窓を開ける。臭いは変わらないだろう、残念だけど。
おれは苦笑いをする。
夏魔王はあくびをしている。
山手通りの信号が3回変わっても車列は動かなかった。
おれはついにヘルメットを脱いで煙草を咥えた。
ライターで火を点けて煙を吐き出す。
カストロールの臭いとニコチンやタール、または短い希望の臭いが混ざって井の頭通の坂道を転げ落ちていく。
いいか、よく聞け。
お前にとっては坂道でもおれにとっては平たんな道ってことがある。
その逆だってあるし、坂道は下りだったり昇りだったりする。
色々あるよな、人生だ。
サイドミラーに目を落とす。
後ろの車の助手席に座った女がヒステリックな貌で男に何か言っている。
男がシートベルトを外そうとしている。
なにか文句を言いに来るつもりだろうか。
おれは臆病なのだ。
逃げられるなら逃げたい。
ほんの少し動く車列。
おれはクラッチを切ってアクセルを開ける。
4000回転の煙。
半クラッチ。動き出すヤマハSDR。
男がドアを開けて車を降りる前にヤマハSDRは細い細い車列の隙間を進んでいく。
サイドミラーを覗く。
巨大なカワサキNINJAが代々木上原駅の陸橋でつっかえている。
スズキGSが小田急線の高架橋を壊そうとしている。
人生はワイヤレス紙風船だし、お前は人類を襲う巨大なミジンコだ。
おれはタコスを食べるミトコンドリアだ。
ポカホンタスの女が轢かれて死んでいる可能性もある。
それが悪夢か現実かどうかと言うのはあまり関係がない。
おれは臆病で、そこから逃げたいと言うことだけが真実だ。
山手通りに広がったババロアを踏みつけて走る。
ヤマハSDRは止まらない。
おれは止まれない。臆病だからな。
夏魔王の尻尾。
その上で踊るおれたちはアヒージョみたいなものだ。
ヘルメットの中で汗が蒸発していく。
煙草は捨ててきた。
この先の速度についてこられない。
悪い冗談だ。
半クラッチの4000回転。
煙が止まらない。
冷や汗が流れ落ちる。
カワサキNINJAは巨大化しながら井の頭通を走ってくる。丸坊主のタイヤが車列を潰しながら走っている。
巨大化したスズキGSは風防で陸橋を破壊しながら走っている。
新幹線風防がこんな事で役に立つとは知らなかった。
おれも案外と間抜けなのかもしれない。
または過剰に臆病なのかも知れない。
富谷の交差点で夏魔王に戦いを挑む。
そう、それはラグナロクだ。
神々の黄昏。
夏の終わり、将来の夢、冬将軍が希望。
忘れない半年後の4月にきっとまだ30度を迎える気温に憎悪を込める。
うんざりしている。
いくらヤマハSDRが早く立って地球の自転速度には叶わない。
おれのすぐ後ろで巨大なカワサキNINJAのアクセルコールが聞こえた。
スズキGSもじきに吼えるだろう。
おれは諦めてヤマハSDRのエンジンを切った。
おれは臆病なんだ。
それではみなさん、さようなら。
車輪の下はそう苦しくないだろう。