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【短編小説】冥闇クルパ
ひとは怠惰になっていく。
それは単に生活態度や勤務実態を言うのでは無く、自分と言う存在に対してと言う意味だ。
誠実さを失っていく。
そこには、かつて発生していた愧と言う名前の耐え難き苦痛が存在していたはずだが、それに対して鈍感になっていくと言うことだ。
その鈍感さにさえ、愧を持たなくなる。
夏の気配がすっかりと薄い清々しく晴れたある日曜日の朝に、呼吸器科の医者から命じられた禁煙を破って煙草を吸いに散歩をしていると、自動販売機の前で何かを話している父娘が見えた。
煙草に火をつけてしまったので最初は無視をする気でいたが、横目で見るとどうも諍いをしているようだった。
速度を緩めて二人を伺うとどうやらその自動販売機は壊れており、硬貨を入れずともボタンを押すとジュースが次々と出てくると言う状態だったようだ。
当然ながら父親の方は喜んでおり、次々とボタンを押しては出てくる缶ジュースだとか缶コーヒーを取り出して、腕に下げた買い物袋に収めていた。
「故障ですか」
そう訊くと父親は笑って
「えぇ、そうみたいです。おひとつ、と言わずどうですか?」
と言った。
ちょうどいい、煙草を吸ってコーヒーが欲しくなっていたところだ。麦茶みたいな薄さの缶コーヒーでも構わないからひとつ……と思い手を伸ばそうとしたが、父親の傍らに立つ娘の咎めるような視線を認めた。
娘は今にも泣き出しそうな顔で
「それは悪いことだよ」
と言って父親の袖を引いた。
罪。
たしかにそれは紛れもなく窃盗である。
それに我々は別段なにかに搾取されていたりしないし、金銭的に困っている訳でもない。
何よりこの自動販売機に商品を補充しているルート配送員も、その商品をライン生産している作業員も、我々と同じ労働者である。
ボタンを押して缶コーヒーをひとつ取り出しながら娘に言って聞かせるように、ゆっくりと話す。
「いいかい、これは確かに罪だ。
しかし金を払わずに商品を得ると言うのは我々の願いであり、つまりこれはその叶えられた祈りだ」
父親は大きく頷いた。
「いつか君にも分かる日がくる。これを罪だと思う心は、年齢と共に消えて無くなる。
我々は愧ずべき存在だ、早く死んだ方が良い。だが君のお父さんには君を育てる義務がある。
だから君はその愧と言うものを出来るだけ長く持ったまま生きるんだよ」
かつて自分の中に存在していた正義感だとか愧とか言ったものを、麦茶のように薄い味の缶コーヒーで飲み干した。
娘は黙って話を聞いていたが不服そうな顔をして首を捻ったので、缶コーヒーを顔面に投げつけて目眩しをした隙に仏壇返しの容量で車道へ放り出した。
仰天した父親も岩石落としの手法でもって車道に投げ飛ばして、素晴らしい日曜日にケチがつかなかった事を感謝して、散歩を再開した。
人間とは、かくも怠惰な存在になる。
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