【短編小説】もう夢を見ないで済むように
柘榴の周囲を飛び回る蜜蜂の飛翔によって産まれた悪夢から目覚める3秒前の女子高生と戯れる夢は電車のドアが開閉する音で遮られた。
しまった寝過ごした、と言う感覚が夢の残り香を上書きしていく。
夢に見た女子高生の顔を思い出そうとしながらシートから立ち上がり電車を降りた。
ダッフルコート、セーラー服、ローファー、紺色のハイソックス。
その下に何があったのだろうか。
ホームの向こうに広がっていたのは全く見覚えの無い景色だった。
行き先表示でしか見たことのない駅名。
疲労と諦念が巨大な質量を伴って溜息として吐き出された。
「もしもし」
「いまどこなの?」
怒りや呆れ、または疑念と言うよりは純粋に不安と心配の声で妻は電話に出た。
「やらかした、寝過ごした」
「迎えに行こうか?」
「旅行になっちまうから気持ちだけ」
「どうするの?」
どうしよう、とその時になって初めて考えた。
「タクシーは勿体無いし、最寄りのネットカフェまでたどり着きたいな」
「希望的観測」
それだけ言うと妻は無言になった。
当たり前といえばそうだ。
遅くなるとは言ったものの寝過ごして朝帰りになるとは言った覚えがない。晩飯は要らないと伝えたが、そう言う話でもない。
「すまん、帰るのは明日の朝になる」
分かりきった事を伝えると、ため息やら唸り声やら沈黙やらを繰り返した挙句に何か言いたそうなものをたっぷりと含ませて
「わかった」
と答えると通話が切れた。
この週末のご機嫌伺いが大変そうだ、と思う頃には夢で見たのは女子高生だったのかも妖しいほどに記憶は曖昧になっていた。
脳みそと言うのは信用ならない。
すぐに忘れてしまう。
そんな事を考えながら寝汗と疲労でベタベタとする影を引きずって駅を出た。
駅員の小馬鹿にするような視線が冷えた空気と共に後頭部を突き刺していた。
始発に乗って帰るなんて言うのは新入社員の時が最後だった気がする。
いつもは電車に乗るホームを降りる感覚と言うのは違和感がある。まるで会社をサボるようなくすぐったさを感じながら、さて週末はどうしようかと思案した。
しかし幾ら考えた所で本人の意向と言うものがあるな、と思い至った時には玄関のドアノブに手がかかっていた。
「ただいま」
当然寝ているだろう。それでも無言は気が咎めたので小声になった。
返事はない。分かっていたが寂しかった。
音を立てずに寝室のドアを開くと、ベッドの上には布でできた繭の様な球体が鎮座していた。
「ただいま」
もう一度声をかけると、その繭状になった布の塊は小さく揺れた。
返事なのだろうか。
ベッドの上の繭はよく見ると、全て今週に着て洗う前の服だった。
「洗う前の服だぞ、臭いだろ」
また繭が揺れたが、それは何か抗議しているような不満げな動きだった。
確かに今週は忙しくまともに顔を合わせて話す時間も少なかったが、何もそんな真似をしないでもと思う。
自分の体臭を嗅がれることに対する気恥ずかしいが、寂しい思いから衣類にくるまって眠ると言う妻の思いが嬉しくもあった。
「今週末はどこか、美味しいものでも食べに行こうか」
最初からホテルでランチなどと言うと、それ以降のハードルが上がってしまうなどと打算的な考えからそう言った。
また繭が揺れた。
その繭の表面にあったのは日曜日に着たスウェット、その次は月曜日に着たワイシャツ……と言った具合に重なっている布の繭を、一枚ずつ剥がしていった。
中に丸まっている妻はどんな姿勢で、どんな顔をしているのだろうか。
うっすらと加虐的な気持ちになったところで、昨日着たシャツが手にかかった。
何の抵抗も無く剥がれたシャツの下には何も無かった。
そこには何の肉体も無く、また温度も残り香も無かった。
繭の中身は自分ですら無かった。
もう繭は動かない。存在しない。
突然、昨日の忘年会が楽しかったと言うことは中間管理職としては失敗だったなと思い今日で辞めてしまおうと思った。
何をかと言えば全部だった。
それで終わるかどうかは知らないが、そうしようと思った。
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