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【脳と心とヨガ哲学】Yoga Sutra1-3,4 心のはたらきを滅した先の「見る者」とは

ヨガ哲学というと身構えてしまうかもしれません。しかし、この古い時代の賢者達の集合知を心理学や脳科学と照らし合わせると驚くほど理解しやすくなります。この記事ではスピリチュアルな要素を省き、現代人のわたし達にとってもフィットし、人生のヒントになるアイデアとしてヨガ哲学を紐解いていきます。

前回のおさらい


前回はヨーガ・スートラ1-2の有名なフレーズ「ヨガとは心のはたらきをを滅することである(Yogaś citta vṛtti nirodhaḥ)」ではヨガの定義、そして心のはたらきを滅するとは、神経科学的にどういうことなのかを考えました。

今回はヨーガ・スートラを支える二元論の考え方そのものに触れていきます。さて、今回カバーするのは1-3と1-4です。ここは対になっているので一気に行った方が理解しやすいはず。早速まいりましょう。

1.3 Tadā draṣṭuḥ svarūpe avasthānam

そうすれば(ヨーガの状態に至れば)見る者は自分自身の本来の姿に留まる
Tadā = その時、その瞬間
draṣṭuḥ = 観る者、観察者(真の自己、純粋な意識を指す)
svarūpe = 本来の質、本質、自己の本来の姿
avasthānam = 留まること、存在すること

1.4 Vṛtti-sārūpyam itaratra

それ以外の場合、見る者は心のはたらきに同一化してしまう
Vṛtti = 心のはたらき、心の動き、変化
sārūpyam = 同一化、同じ形になること
itaratra = それ以外の場合、他の状態では


「ヨガの状態」というのは1.2で語られた「心のはたらきを滅することができる状態」です。

「ヨガの練習をして心のはたらきを滅することが叶えば、自分の本質が反映された本来の姿でいられますよ~」というのがヨーガ・スートラ1-3の大まかな意味です。ただすべての単語を使って直訳すると自分本来の姿にとどまるのは「見る者」ですが、これどういうこと? となりますよね。

それはこのシリーズで古典ヨガの世界観の基礎知識についてはまだ触れてなかったから生まれる疑問です。今から説明しますね。

プルシャとプラクリティ

前提のお話になりますが、ヨーガ・スートラはインド六派哲学のヨーガ学派、サーンキヤ学派の二元論に基づいています。

二元論というのは世界の全てを二つの原理にわけて考えること。サーンキヤ、ヨーガ学派の場合は「プルシャ」と「プラクリティ」の二つの根本的な原理で構成されるという考えです。

プルシャは変化しない純粋な意識であり、本来の自分や観察者にあたります。一方、プラクリティは物質的世界全体を含む変化し続ける現象すべてを指し、心、感情、思考、肉体なども含まれます。

わたしたちは普段、感情と自分を切り離しては考えません。怒っている自分や悲しんでいる自分がいるし、身体の痛みや快楽も自分そのものだと捉えてます。しかしヨーガ・スートラでは、これらはすべてプラクリティであり、感情や体の感覚は外側で起こっている変化にすぎず、それに流されているときは本来の自己から遠ざかっている状態であると考えます。

そして、感情や快感や痛みの渦中にいながらも感情や感覚に冷静に気づいているもう一人の自分がいないでしょうか。その気づいている存在はプルシャ=見る者の片鱗と言えるかもしれません。

この辺りはちょっと理解が難しいところなので、いきなり分かろうとせず「そうなのか」くらいに考えてもらえばいいかなと思います。プルシャとプラクリティは、スートラを理解するための公式のような存在なのです。

念のために二元論ではプルシャとプラクリティは明確に違うものであり、決して混ざり合うことはないという点も特徴として挙げておきますね。純粋な意識であるプルシャは、決してプラクリティに影響されることはないという考えです。


心のはたらきを滅することが本当に重要なのか

練習して難しいアサナが出来るようになれば、誰だって嬉しいですよね。実践は素晴らしい達成感をもたらし、その努力を誇りに思うのは当然です。しかし「出来た」ことに執着するのは危ういことです。

考えてみてほしいのは、汗をかいた量などや、ポーズの完成といった視覚的な達成感を自分自身、あるいは実践そのものの価値と同一視していないかということです。

努力(行為)も結果も、結局のところはいずれもプラクリティであり、達成や結果というのは単にプラクリティの変化の連続に過ぎません。ヨーガ・スートラの考え方としては、ヨガの実践はプルシャの純粋性を知り、近づいていくことであり、プラクリティはその成長の段階における「解放への試練」です。

だから「難しいポーズが出来たワーイ」「たくさん汗かいた頑張った!」というのは、心が盛んにはたらいている、つまり試練の前で足踏みしているということでもある。「ヨーガの状態」とは異なります。

ヨガのゴールは「悩みの解決」なのだから

古代のインドの先人は「終わらない輪廻という苦から解放されたい」というゴールのためにヨガを実践し、メソッド化してきました。

現代人のわたし達の望みは輪廻からの解放ではないけれど、肩こり、体型、メンタル…何かしらみんな悩みを解決したくて「ヨガでもやるか」となるわけですよね。

ゴールが違うのだから、どのくらい感情を制御することかの加減は違いますし、達成感も適度であれば良い刺激になるはずです。だけど、なんの疑問もなくプラクリティの変化の連続に一喜一憂するのは得策ではなさそうです。しかし、わたし達はついうっかり行為と結果を同一視し、心を動かされてしまうのです。なぜでしょう?


行為と結果を同一視してしまう脳内機序

わたしたちは努力すれば報われると思いがちです。子どもの頃、テストで良い成績をとると褒められたり、運動してスッキリした経験はありませんか?
これは「報酬系」という脳の仕組みが関わっています。

報酬系は「快感や達成感」を生存に必要な行動のご褒美として与える神経回路です。これが働くと、また同じ行動を繰り返したくなります。ヨガで少しずつ柔軟性が増したり、ポーズが深まる感覚も報酬系の影響です。

ただし、報酬系は「わかりやすい成果」を好む傾向があり、小さな変化や気づきを見逃しやすいのです。もっとできるようになりたいという気持ちが、目に見える変化こそ自分の価値だと勘違いさせてしまうことがあります。

小さな変化というプロセスを楽しめなければ、無理をしたくなります。その結果、身体に負担がかかったり、出来ないと劣等感を持つことにつながります。

報酬系に振り回され、心のはたらきに飲み込まれるのは、決して効率的なヨガの実践にはなり得ません。

今回のまとめ

▶︎ヨーガ・スートラは二元論哲学である

▶︎ヨーガ・スートラの考え方によれば…
 ・プルシャとは、純粋な意識であり観察者。人間の本質はプルシャにある
 ・プラクリティとは、物質原理であり、変化し続ける物質、現象すべて

▶︎心のはたらきが鎮まったヨーガの状態に至れば、わたし達は本来の自分になり得るが、そうではない時はプラクリティに巻き込まれてしまう

▶︎古代インド人にとっての最大の解決したい悩みは「輪廻からの開放」でヨガはその克服を目的としてメソッド化されてきた歴史がある

▶︎脳には報酬系という欲求が満たされたり、満たされることが期待できる時に活性化し快感をもたらすシステムがある

▶︎過度に心がはたらいている時、脳では報酬系がはたらいている、と言えるのではないか? この時、怪我のリスクが高まったり、劣等感の原因になる感情が生まれるのでは?


もりだくさんでしたね。この「報酬系の罠」にどう向き合うかが、ヨガの実践を効果的に深めるキーになりそうです。自分の内側で何が起こっているのかを理解すれば、実践そのものがもっと穏やかで充実したものになるのでは

次回は、1-1からのまとめを脳についてのお話をメインにして掘り下げます。
ぜひ、お読みいただければ幸いです。

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