文学は謎によって生き残る。
日常言語は謎を排除し平明を重んじる。報告、説明、依頼、取り扱い説明書、契約文書、業務通達、始末書・・・。誰が読んでも同じ意味が通るように言葉を使うもの。新聞記事も論説文も批評も、ともすれば小説でさえも、さほど違いはない。基本的に散文とはそういうものなのである。
では、ラヴレターはどうだろう?「わたしはあなたに好意を持っていて、これは世に言う愛だとおもわれます。いまやわたしはこのおもいの奔流に苦しめられてさえいて。できるならばわたしはあなたを抱き寄せ、くちづけを交わし、なんならその先にさまざまに夢のようなエッチで淫らで人目をはばかるあんなことやこんなことことがおもいっきりできることを期待し、わたしはこれらのわたしの切なる願望を是非にもあなたが受け入れてくださることを切望しています。どうぞ、わたしをよろこばせてくださるお返事をくださいますように。Sincerely yours.」自己省察も完璧、論旨も明解、相手への要求に誤解の余地もない。しかし、ラヴ・レターとは相手の欲望の小箱の蓋をそっと開くための魔法の呪文である。こんなラヴ・レターでその蓋が開くわけがない。すなわち、これはラヴ・レターとして成立していない。そもそも相手には(自分とは異なった)価値観がありその相手ならではの欲望があることがまるで考慮されていない。おそらく相手はどん引きである。ラヴ・ドールでも買いに行け、と罵倒されるのがオチである。
ところが呆れたことに世の中には前述のような「ラヴ・レター」をともすれば書きかねない人種が存在していて、それはIT系の連中で、かれらはアルゴリズム的思考に脳みそが乗っ取られているがゆえ、そんなことになってしまいがちである。じっさいあるIT関係者は、結婚したい女にこんな提案をした、「ぼくと結婚すると、ぼくはあなたの人生を善導するため、以下のような計画を持っていて、実現して見せることをお約束します。」ぼくはあっけにとられ言葉を失った、それは企画書ではないか。案の定、かれは振られた。
とはいえ、しかし、(冒頭で述べたとおり)そもそも小説を含む散文には謎を排除し平明を重んじる態度があって、しかしもしも明解を徹底的に突き詰めれば、前述のような「ラヴ・レター」になってしまう。
おもいだして欲しい。いにしえの日本では、御簾を介して顔も見えない相手に和歌を送り合って、愛を成就しようとしたもの。和歌の巧い男女は、たとえどんなぶさいくなおっさんでもブスな女でもめちゃめちゃモテたものだ。(ついでに言えばシェイクスピアもぶさいくな貴族から依頼されて、恋愛詩の代筆をあれこれしたものだ。)
詩は文学の精霊で、たとえ小説のなかにさえもどこかに詩が息づいていて欲しいもの。なお、詩の命は謎である。謎があるから、詩は何度も読まれ、謎が消えたとき詩は消滅する。愛もまたそういうものだと言えないこともない。さて、いまここでぼくが書いたこの文章に謎はない。この文章もまたあっというまに忘れられてゆくでしょう。人は忘却してしまったものをおもいだすことはほぼできない。