引き寄せの法則。ケララの風、沼尻匡彦さんの場合。(沼尻さん物語、その3)
え、おれが生まれたとこ? 埼玉県の大里郡大里町ってとこでね、さいきんは合併して熊谷市になっちゃって大里って名前も消えちゃったけどね。関東平野に田んぼが広がるだだっ広い田舎町だった。おれがものごころついた頃は敗戦から十年ちょっと経ってるけど、それでもまだ貧しかったね~。国道だって舗装してなくて泥んこ道、インドの田舎よりもひどかった。自家用車なんて誰も持ってなくて、バスは一時間に一本。本屋へ行くのだって自転車漕いで30分かかる。毎週自転車、漕ぎましたよ、『少年サンデー』買いにね。『おそ松くん』が大好きだったから。赤塚不二夫は天才だね、あの人の作品って前例がないものばっかでしょ。
おれの親父は大正14年生まれでね、農家をやってました。米と切り花で稼いでた。カーネーション、チューリップ、アネモネ、かすみ草、バラ、芍薬、牡丹とかね。花はね、流行があってね、新しい品種で良さそうなやつをどんどん作っていかないと商売にならない。季節もあってね、冬にビニールハウスでボイラー焚いてチューリップ咲かせたりしてましたよ。親父は趣味でフルーツもいっぱい育ててた。みかん、柿、葡萄、林檎、梨、イチジク、梅、プラム・・・植えりゃ勝手に育つからね。フルーツは商売用じゃない。
たしかに、後におれがインド料理に使うスパイスをひととおり育てた時期があるのも、親父の血を引いているのかもしれませんね。
親父は奥さん(おれにとっちゃ母親ね)を大事にしていてね。奥さんを気遣って、洗濯機と炊飯器を買うのも早かった。テレビを買うのも早かった、おれが小学1年生のときだもん。『大正テレビ寄席』で牧伸司のウクレレ漫談、トリオ・ザ・パンチ、獅子てんや瀬戸わんやとかね。土曜日の吉本新喜劇とか大好きだった。中学生の頃、ドリフターズの『全員集合』が始まって。おれね、『笑点』の大喜利が好きでね。おれ、中学3年生の頃、クラスのおたのしみ委員でね、みんなで大喜利やろう、って提案した。そしたらさ、クラスのみんなは大反対。けっきょく、おたのしみ会では、おれがひとりでお題を出して、おれが答えんの。だーれも笑わなくてさ、冷たい目で見てんの。だからね、たとえわたしがネタやってウケなくたって、こっちはもう中3のときから慣れてんだから。年季が違いますよ。
中学の頃はポップスも好きになった。ズー・ニー・ヴーの『ひとりの哀しみ』とかね、後に尾崎紀世彦の『また逢う日まで』になるあの歌ね。オックスの『スワンの涙』とか好きだったね~。本もよく読んだ。学校の図書館にある本はみんな読んだよ。高校に入ったら、図鑑ばっか読むようになったけどね。植物図鑑とか動物図鑑とかね。
大学? 慶應。文学部哲学科、倫理学専攻。マージャンばっかやってたけどね。むかしっからギャンブル好きだったんだよ。パチンコが手打ちだった頃は関東でおれほど巧い奴は他にあと3人くらいしかいなかったんだから。いまは競馬一本だけどね。あ、そうそう、おれ将棋も三段なんだよ。
ケララの風を作るまでの話は知ってるでしょ。(そしてケララの風・第一期は、沼尻さんはオウナーとして、瀬島徳人料理長を雇い、かれがケーララ州のホテルレストランで身につけた、レストランスタイルのひじょうにエレガントなミールスをふるまい、ディナータイムのア・ラ・カルトはその路線をさらにいっそう強調していたもの。)
あの頃は大変でしたよ。ほら、よく言うでしょ、飲食店の危機は3日め、3か月め、3年めに来るって。まさにそのとおりでしたよ。あの頃は苦しかったし、辛かった。マスコミはけっこう取り上げてくれたし、みなさん食事会でもよく使ってくださったんだけれど、集客は増えたり減ったりの繰り返し。しかもうちはフレッシュココナツもビーツも使ってますし、そもそも利幅が薄い。貯金はどんどん切り崩されてゆきます。そのほかいろいろあってね。ケララの風第一期との、別れのそのわけは話したくない。あの空は、あの雲は、わたしの涙を知ってますよ。誰の人生も Good Times Bad Times ですね。閉店予告の後の1か月間は毎日昼夜行列ができましたけど、これがまた商店街のご近所からの苦情が来る原因にもなって、いろいろうらめしかったものです。ままならないものですね。
(そしてケララの風2が2011年6月オープン。こんどは沼尻さん自らがすべての料理をおひとりで担当、料理の味わいは南インド街場の定食屋料理そのままの、ほのぼのした滋味ゆたかな味わいになりました。)
あの頃は借金はあるし、どん底からの再スタートみたいなもんですよ。料理もこれまでのレストランスタイルの料理ではなく、ケララの風2では南インドの定食屋スタイルにして。わたしがひとりで料理を作るようになって。うちのミールスは11種の料理でしょ、(1000円でおかわり自由おまけにコーヒーつきのミールスでした。)お客さんも毎日80人くらい来てくれるし、おかわり自由ですから料理は実質150人分くらい作らなくちゃいけません。当時は借金経営ですから必死で働きました。さいわいこの時期、借金返済も順調にいって。年金も入る歳にもなって。
そのうちに体力が落ちてきて、ケララの風2を2018年末で締め、翌年開けからケララの風モーニング(朝から営業、正午すぎまで営業。ティファン提供のみ)に切り替えることに。なお、このとき告知はしませんでした。(なぜなら、第一期の閉店時のように閉店バブルでいきなり来店者急増みたいなことは避けたかった。ご近所から苦情が来るのも困りますしね。)そのかわりと言ってはなんだけれど第二期終了まえ一カ月間イヴェントをやりました。それはわたしと縁がある料理人たちに一週間づつ店を貸して、ケララの風2で、それぞれの料理人たちに自分の料理を作ってもらう企画でした。参加してくれたのは、マサラワーラー(武田尋善さん&鹿島信治さん)、荒川遊園前・なんどり(稲垣富久さん)、勝田台・葉菜(吉田哲平さん)、長野県上水内郡飯綱町のMON marushime(モン・マルシメ 北野ご夫妻)、前橋チャラカラ(岡田博志さん)、西荻窪とら屋食堂(榊正浩さん)、みなさん自分の店を一週間閉めてこのイヴェントに参加してくれました。わたしは調理補助をやって、かれらに寝る場所を提供しました。
翌2019年からケララの風モーニングをはじめ、ティファンのみの提供で金・土・日・月営業で最初の頃は朝6時45分から12時45分までの営業でした。さいきんは朝10時から午後2時までの営業です。いまはもう借金も返し終わったし、自分の店ですから自分の体力に見合ったかたちで、楽しみながら好きにやってます。
もっとも、ご存じのとおり、おれ、遊ぶのは大好きなんだけれど、でも本業で遊んじゃうと戻って来れなくなっちゃう可能性があって。ですから、ティファンやミールスの料理スタイルは変えません。たとえば、うちは南インド・ヴェジ料理専門店でしょ。だから、絶対にキーマ・カレーとかマトン・カレーとかは出さない。ティファンもミールスも基本を崩さない。
遊びはもっぱらイヴェントでやってます。むかしは野草の会をやって、多摩川の河川敷でみんなであれこれ野草取っておれが料理してみんなで喰ったでしょ。逗子の鮨屋、すしの魚友さんでミールスイヴェントもやった。マサラワーラーの武田くんも鹿島くんも活躍してくれました。いまは月に一回ケララの風で、蕎麦打ち名人呼んで来て、蕎麦打ってもらって、おれは蕎麦つゆと炊き込みご飯作ったり。そのほか餃子の会、たこやきの会、おでんの会、ミールスつきおれの小咄の会もやってます。持ちネタけっこうあるんですよ。いひひ。リクエストがあればいくらでもお聞かせします。年末にはおれのムック作ってくれた編集者の玉置さんが、ラーメンを打つイヴェント忘麺会もやってます。(※『作ろう! 南インドの定食 ミールス~南インド料理虎の穴『ケララの風』ミールス全記録 『趣味の製麺』 別冊 2200円。ケララの風で販売しています。)
コンピューターの2000年問題以降、在日インド人も増えて、おのずと南インド料理もずいぶんと日本に定着しましたけどね。それでもまだね、日本人はインド料理専門家たちまでもがみんなカレーっていう言葉を使うでしょ。もちろんインド料理マニアたちもまた。たしかにインド人だっていくらか使いますよ、チキンカレーとかマトンカレーとかね。ただし、インド人はけっしてダルカレーとかラッサムカレーとかサンバルカレーなんて言わない。料理作っている側の人間から言わせるとね、自分が作った料理をね、ラッサムカレーとかサンバルカレーとか呼ばれちゃうと、傷つくんですよ。ダルカレーって呼び方も困りますね~。そもそも、カレーって言葉は英国人が英国人のためにミックスマサラを売り始めるにあたって使いはじめた言葉で(いまその配合記録も残っていませんから)カレーの定義は一切できません。にもかかわらず、この定義できないわけのわからない言葉「カレー」がいまだに大活躍しているから、おのずと日本人によるインド料理についての理解も評価もなにがなんだかわけがわからなくなる。せめてインド料理について文章書く人はまず最初に、こういう基本的なことをちゃんと押さえて欲しい。
ま、それはともかく、わたしは毎日楽しく暮らしています。あ、そうそう、おれね、コロナのときにYoutube見ていて、YOYOKAちゃんっていう2009年生まれ、いま14歳の天才ドラマーに出会っちゃったんですよ。相馬世世歌(Yoyoka Soma)、彼女のドラムスは凄い。凄い。凄いなんてもんじゃない。彼女のレッド・ツェッペリンの「Good Times Bad Times」のカバーパフォーマンスは、アメリカのテレビでも取り上げられたし、ローリングストーンやビルボードでも取り上げられて、世界中に広まっちゃって。レッド・ツェッペリンのロバート・プラント、ディープ・パープルのイアン・ペイス、クイーンのロジャー・テイラーとか、超絶アーティストたちがみんなこぞって彼女の才能を称賛してるんですよ。凄いでしょ。もちろんおれもファンになっちゃって、彼女の東京公演のとき、ティファンを差し入れしたんですよ。世界が注目するかわいいかわいい天才少女ドラマーのYOYOKAちゃんがおれの作ったティファンを食べてくれるわけですよ。いやぁ、生きてて良かった。あんなうれしかったことはそうそうない。やっぱね、推しがいると人生に張りが生れますね。
なお、こちらがYoyokaさんのいまから5年まえ、8歳のときのパフォーマンスです。
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