東京インド料理の、ある時代。(沼尻さん物語、その2)
場があるって大事なことなんだ。もちろんひとりぼっちでなにかに熱中するのもけっして悪くない。でも同じ対象に熱狂する者たちが集まればその熱は高まり、表現は切磋琢磨され、やがてひとつのムーヴメントが巻き起こる。
たとえば、昭和のマンガ好きならばトキワ荘伝説をご存じでしょう。阪大医学部卒で映画にも文学にも音楽にも宝塚にも趣味を持ち、現代のマンガのフォームを切り開いた手塚治虫が住んでいたトキワ荘アパートに石森章太郎(人生の後半、石ノ森章太郎に改名)、藤子不二雄、赤塚不二夫、水野英子など住みはじめ、ともに苦労し励まし合いながら、やがてみんな綺羅星のようなスターマンガ家に育っていった。
インド料理の世界にも、いくらか似たようなことがあって。かつて1970年代~80年代にあっては、アジャンタの厨房から何人ものインド料理人が巣立って行った。東池袋のエー・ラージ。神奈川県緑園都市にあった故・石原シェフのガネーシュ。(石原シェフの没後ガネーシュは、金沢区能見台で、シェフの料理観が継承されています。)増田シェフの検見川シタール。藤井シェフの高幡不動アンジュナ。小松崎シェフの船橋・サールナート。「和魂印才」の塚本シェフの、初台、たんどーる。小森シェフのさいたま市北浦和、さらじゅ。はたまた浅野 哲哉さんは『インドを食べる―豊穣の国・啓示の国』(立風書房 1986年刊)や『風来坊のカレー見聞録―アジャンタ九段店の調理場から』(早川書房 1989年刊)をお書きになった。インデイペンデントなインド料理人、渡辺玲さんもまたアジャンタ出身で、著書に『新版 誰も知らないインド料理』(光文社 知恵の森文庫)『カレーな薬膳』(晶文社 2003年刊)その他があり、渡辺玲さんは00年代の日本における南インド料理の普及に一役買った。なお、ぼくにとってもっとも忘れられないことは、わが友、ベンガル・サトウもまたアジャンタ出身であることだ。
沼尻匡彦さんとその時代。
他方、00年代に入って、当時商社マンだった沼尻匡彦さんのまわりでもいつのまにかひとつのムーヴメントが起こっていた。沼尻さんは1980年代初頭に南インドケーララ駐在員として働いていた時期に南インド料理と出会い心底魅了された。帰国後料理書も食材もままならないなか、自作に熱中。やがて00年代に、沼尻さんは各地の公民館などを借りて、趣味の自作の料理を実費で誰もにふるまう会「グルジリ」を開催するようになった。なお、沼尻さんはいまでこそ南インド定食屋料理のプロ中のプロながら、しかしその沼尻さんは料理学校へ通ったこともなく、レストランで仕事をした経験もない。いまはともあれ当時の沼尻さんは調理のどしろうとである。そのどしろーとが作った料理をたとえ実費だけとはいえカネを取って、食事会を開催するのだ。プロの料理人から見ればとんでもないこと、ドン・キホーテに見えないはずがない。ところが、その沼尻さん主催の食事会はどんどんファンを増やしていった。6年間で北は北海道から南は九州沖縄まで260回、参加者はのべ6000人にものぼった。沼尻さんはオヤジギャグをたえまなく飛ばす気さくで人柄のいい人で、誰もが沼尻さんをしたい、好きになった。ただ料理がめずらしく、食べておいしいだけではない。みんなで皿洗いをすることさえも楽しかった。そこに沼尻さんがいたから。
00年代はまだ東京に南インド料理店もほとんどないも同然で、ラッサムの味ひとつとっても議論百出だった。(異端にして独創的な、そして1978年以降約20年間ぼくを魅了し、いまなお好意を隠しきれない、ケーララ系インド人たちによるナイルレストランのラッサムもまたトマトスープに近いものをふるまっていた。ついでながらぼくがアジャンタの存在を知るのも、あろうことが00年代のこと。いかにもネットのなかった時代のことではある。アジャンタもまたナイル・レストラン同様、いかにも後期昭和らしい逸話に満ちていて。)そんな時代だからこそ、沼尻さんたちはダルの豆の配合の仕方に関心を持ちもすれば、テンパリング(香りづけ)に興味しんしんになった。イディリのタネの発酵の度合に議論が交わされもした。ドーサをかっこよく焼きあげることに至っては、夢のまた夢だった。しかし、そんな手探りでの探求がどれだけゆたかで、たのしかったことか。ぼく自身はアマチュアと言えどもとうてい料理人とは言えないにもかかわらず、かれらの熱狂はたいへんにドラマティックで、ぼくはその場にいるだけでわくわくしたものだ。
実はこの食事会でオーガナイザーの沼尻さんをサポートしていたのが、後になんどりを開くことになる稲垣さんであり、はたまた国分寺にこの人ありのベンガル・サトウ、週末にはヒーローショーで活躍するik@ さん、その後西荻窪にとら屋食堂を開くことになる榊正浩さん、千葉県八千代市に葉菜を開くことになる吉田哲平さんだった。(ここでは余談ながら、2023年葉菜からは姉妹店、葉菜子が京成大久保に生まれた。)
2008年、沼尻さんはオウナーとして大森にケララの風を開く。第一期ケララの風3年間の料理長は、瀬島さんだった。そう、後に桃の実のオウナーシェフとして十年間活躍した、あの瀬島シェフである。当時かれはベンガル・サトウの私設食事会の二番手を務めた後、ケーララ州の一流ホテルグループで一年間の修行をして帰国、圧倒的な技術と幅広いレパートリー、そしてレストランスタイルの優美で華やかな料理で誰もを驚かせた。ただし、それは2008年以降のこと。00年代の大半は、いまにしておもえば東京のインド料理マニアにとっては夢のようなメンバーがまだみんな無名で、ただひたすらインド料理に夢中だったのだ。
みんなそれぞれキャラクターはまったく違う。沼尻さんは明るく気さくな人柄で、揚げ物が抜群に巧くサイコーにおいしい完璧なワダを揚げる。ただし他の料理はけっこう大雑把で、それでいてちゃんと料理群全体にトータリティがあっておいしく、食べていて楽しい。しかも、沼尻さんの料理は少しづつ成長し、いつしかいかにも南インドの定食屋っぽくさまになっていった。ドーサも(大きさこそほどほどながら)薄くクリスピーで最高においしくなっていた。これをフレッシュココナツチャトニで食べる幸福は堪えられない。なお、沼尻さんは南インド料理を誰よりも愛しながら、同時に他方で沼尻さんは、誰もが自分の料理を気さくに食べて、みんながくつろいでうれしがって、たのしい時間が持て、ともすれば仲間になれる、そんな場を作ることが大好きなのだ。沼尻さんにとって南インド料理は、みんながハッピーになれるツールであり、場を作る術なのだ。ぼくはそれをかけがえなくすばらしくおもう。
他方、稲垣さんは学者肌で徹底的な探求心を持ち、「ラッサムとはなにか?」「サンバルの本質とはなにか?」そんなことをつねに考えていた。ベンガル・サトウはいたずらっぽい微笑みでぼくに言ったものだ、「もしも稲垣さんが映画学に興味を持ったら、『イワン雷帝』や『戦艦ポチョムキン』から映画史に沿って徹底的に観るよね。」(もっとも、じっさいの稲垣さんは奥様の紀子さんとおふたりともども日本有数のタミル映画マニアであり、2020年に紀子さんはタミル映画輸入会社を設立しておられます。)ぼくは答えたもの、「たしかに! 稲垣さんはロック好きでね、フランク・ザッパとかトッド・ラングレンとかフォーカスとか趣味がハイブロウでね、好きになったアーティストは必ず例外なくすべてのCDを完全にコレクションしてるの。稲垣さんらしいでしょ!」さて、そんな稲垣さんの調理は緻密で味はおだやか、タミル料理のレパートリーを増やすことへの情熱も果てしない。また、稲垣さんはどんなときも小岩サンサールのウルミラさんのワイルドで天才的な料理を至上最高のものとして愛し抜いていて。稲垣さんはいかにも稲垣さんらしい人生を生きている。
ベンガル・サトウはシャイな性格ゆえ、自分の好きな人たちを招待する私設食事会でだけ、かれの華麗な料理をふるまい、自分の好きな人たちを幸福にすることが大好きだった。ただし、そんなサトウさんは沼尻さんの食事会だけはまめにサポートしてらした。00年代のサトウさんは板橋ルチを愛していた。サトウさんの私設食事会から瀬島さんが育ち、さらに瀬島さんは南インドの一流ホテルグループでさらにいっそう調理に磨きをかけた。瀬島さんの料理は前述のとおり、圧倒的だった。じっさい桃の実水道橋店は2011年、ミシュランの星を獲った。(星を捧げるならばケララの風第一期か、もしくは桃の実・本郷店時代にだろ、とぼくはミシュランの不見識をやや軽蔑するものの、いずれにせよ、たしかに瀬島シェフにはマカロンを授与される資格がある。)ただし、その瀬島シェフの優美に洗練された料理は時代に二歩も三歩も先んじていたゆえ、ケララの風第一期3年間も、そして桃の実十年間もいずれも経営に苦労することになる。ただし、それもまたすべてその後の話である。
余談ながら、沼尻さんの食事会が2008年ケララの風の開店によって幕を下ろすまで、ぼくもまたかれらのグループの(いくらか周縁的な)一員だった。その後ぼくは2014年はじめから2020年の夏まで西葛西のアムダスラビーの連中とつきあい、毎週末のブッフェのお手伝い(黒板への料理名書き、料理に添える料理名プレートの準備など)をやりもすれば、2022年夏からはTaaj Palaceの土曜ランチブッフェの手伝い(ご近所づきあい)をしてもいて、両店でインド人料理人たちとともに過ごすことによって、たのしみながら学んだことはあまりに多い。ただし、ぼくがインド料理の趣味をこんなにも深めるようになったのも、沼尻さん、ベンガル・サトウ、稲垣さん、瀬島さんをはじめとするかれら全員のお陰です。ぼくはみんなに感謝しています。
それにしても、あの頃はよくぞあれほどまでに違ったキャラクターが仲良く、助け合い、お互いのことを認め合っていたことか。ぼくにそれを言う資格があるとはおもえないものの、それぞれみんな例外なく底抜けな好人物でありつつも、みんなそれぞれ資質も違う、あまりにも我の強い連中揃いであるにもかかわらず。これがまた奇跡的なluckyだった。もちろんそれは沼尻さんが中心にいたからに他ならない。
アマチュアという言葉は、アムールする人。愛する人という意味である。なんて素敵な言葉だろう。その後シャイで欲もなく、マンション・オウナーの本業を持っていたベンガル・サトウと、はたまたぼくを含むもっぱら食べること専門の者たちを例外に、あの頃の仲間たちの多くは自分のレストランを持ちプロになっていった。かれらはみんな多くの高評価を勝ち取りながらも、みんな例外なくさまざまな苦労をも味わうことになる。どんなビジネスでも同じこと。これが人生ではあって。だからこそ、ぼくはただあの時代を懐かしむ。沼尻さんのまわりに南インド料理好きが集まって、みんなそれぞれに寝ても覚めてもインド料理に熱烈な夢を見た、東京のインド料理の、ある時代を。あの頃みんなアマチュアだった。そしてぼくもまたそこにいた。
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