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三島由紀夫はゲイ? ヘテロ? バイ? この疑問に終止符が打たれた。

2011年一冊の本が三島由紀夫の愛読者や研究者全員をびっくり仰天させ、こぞって椅子から転げ落とした。その本は岩下尚史著『ヒタメンー三島由紀夫が女に逢う時』有山閣 である。




この本はあきらかにした。1955年7月29歳の三島は歌舞伎座の楽屋でひとりの女性と出会って以降三年間にわたって、三島は彼女に夢中になって、性愛経験を持っていたのだ。その人の名は豊田貞子さん。貞子さんは慶應女子校一期生で、当時19歳。赤坂の芸者衆の呼べる料亭・若林のお嬢さんで、歌右衛門の17歳年下の妹である。三島は出会ったときから貞子さんにぞっこん夢中になって、貞子さんを彼女のむかしからの愛称「だこ」よ呼ぶようになって。逢瀬は帝国ホテルのグリルバー、銀座のドイツ料理屋ケルテス、洋食の小川軒、れんが屋、新橋の鳥料理屋・末げん、和食の吉兆、灘萬など、そしてふたりはめでたく男女の仲になる。この時期三島はしあわせの絶好調、書けて書けて仕方ない。『沈める滝』、『幸福号出帆』、『金閣寺』、『永すぎた春』、『施餓鬼舟』、『橋づくし』、『女方』、『美徳のよろめき』、戯曲では『鹿鳴館』・・・。それにしても三島は恋愛の幸福のその幕開けの時期であってなお、あろうことか『沈める滝』を書いてしまうのだ。なんて厄介な男だろう!(この作品については別項で紹介しましょう。)




貞子さんは三島と過ごした日々をこう追想しておられます、「あのくらい純粋で、良い人はなかった。三年のあいだわたしは公威こういさんのやさしさにつつまれて、毎日ほど会っていながら、ただの一度だって可厭いやな、不愉快な思いをすることはなかったのだもの……」




誰だって驚くでしょう。だって、三島は二十歳の頃、『仮面の告白』の後半のヒロインのモデルだった三谷邦子さんにキスまでは持ち込めたものの、彼女の家から婚約を申し込まれるやいなや、三島の優柔不断がたたって、結果彼女は別の家に嫁いでしまう。こうして三島は彼女に振られ、絶望にのたうちまわってからは、一所懸命男色者になろうと努力、見事誇り高い堂々たる男色者になりおおせたというのに。しかし三十歳前後の三島は、若くて清楚なかわいいまるで半玉芸者のような、それでいてしろうとではある着物の似合う貞子さんにぞっこん惚れた。ほぼ毎日のように貞子さんとの逢瀬を重ねた。しかも、三島は彼女とともにある、日本の遊芸文化の精髄にも魅了されてゆく。これだから三島は信用なりません。




しかし、ふたりの幸福な恋愛はなぜか終わってしまう。それは1957年の春から夏のあいだのこと。『ヒタメン』にも明解な理由説明はないものの、もともとふたりに結婚の意志が希薄だったとか、はたまた貞子さんは三島との経験がまたたくまに小説の素材にされ、おもいもかけない世界が作り出されてしまうこと、さらには三島が誰かれかまわず貞子さんを自分の恋人として自慢し、公的な場所にさえも同席を求めたことなどが貞子さんを三島から遠ざけるようになったらしいことが、貞子さんの奥ゆかしいものいいを通じて推察されています。




三島は1958年6月1日、日本画家のお嬢さん杉山瑤子さんと見合い結婚しています。当時瑤子さんは21歳で、日本女子大英文科在籍中。結婚を機に彼女は専業主婦となった。




この本によって、あきらかに三島由紀夫研究は新たなフェイズに入った。なぜなら、それまでの三島由紀夫研究においては、二派の争いがあった。一方の陣営は述べた、三島はゲイである、『仮面の告白』を書いた時点でこそ実体験は怪しいものの、しかし『禁色』を読めば三島が堂々たるゲイに成りおおせていることはあきらかではないか。しかも没後そうそうに書かれたジョン・ネイスン著 野口武彦訳『新版・三島由紀夫ーある評伝』新潮社 に至っては、豊富な取材によって、三島がゲイであったことはもはや前提である。なお、この本の旧版は三島の奥様、瑤子さんの手によって長らく発売禁止にされた。



しかし、それでも他方の陣営はなんとしても断固三島がゲイだったことを認めず、むしろ三島はただ自分以外の人間にあこがれ、同性愛者を演じてみせただけなのだ、と主張した。なお、その代表は『三島由紀夫の世界 』(新潮社刊)を書いた村松剛である。かれは三島とひじょうに親しかった人で、しかもかれの妹は三島戯曲の多くに主演した女優・村松英子である。そんなかれにさえももっぱらヘテロだとおもわせてしまう三島がまた凄い。これが三島由紀夫の、仮面の社交術である。三島はつねに〈相手が持つ三島像〉にめいっぱい応える過剰なサーヴィス精神の持ち主なのだ。じっさい三島は父の前では父好みの実務的な男を演じ、母の前では誰よりもいちばん母を愛する息子としてふるまった。日本浪漫派の先輩作家たちに対しては愛国少年文学者として接し、そして川端康成を師に選んでからは川端こそが生涯の師であると繰り返し表明した。つまり三島は男色者に対しては男色者を演じ、三島好みの女たちの前では彼女たちを讃美してやまなかった。



他方、村松剛にとっては、三島を男色者として認めることはかれが愛する三島作品を汚されることだったのだ。




しかし、三島没後続々と出てくる証言は、ことごとく三島が同性愛者だったことを裏づけた。こうして、三島研究者たちは(一部の人はしぶしぶながら)、三島が男色だったことを認めた。




こうなると気の毒なのが奥様の瑤子さんである。三島の没後同性愛証言が多くでまわるにしたがって、ふたりの結婚を「偽装結婚」と見なす人まで現れた。瑤子さんはさぞや辛かったことでしょう。じっさいは三島はバイであり、愛妻家のマイホームパパで、それでありながらひそかにゲイ・ライフをも謳歌していたにすぎないのだけれど。




それはそれとして、三島が才能あふれる美女たちを大好きだったことはけっして仮面ではないでしょう。なぜなら、三島は早世した妹・美津子を溺愛した。また三島は才能ある美女たちといるときとてもくつろいで楽しそうだった。それは『彼女たちの三島由紀夫』(中央公論社刊 2020年)を読めばよくわかる。三島は岸田今日子、高峰秀子、石井好子、越路吹雪、芳村真理らといかにも愉快に会話を楽しんでいる。また、三島は生涯にわたって森茉莉さんを庇護した。さらには、三島がいかに女優・村松英子を溺愛したかは、彼女の著書『三島由紀夫 追想のうたー女優として育てられて』(阪急コミュニケーションズ 2007年)で伝わってくる。なるほど、女性が好きで好きでたまらないゲイもいるものだ。しかしながら、あのマッチョでbizarreな肉体を作り上げた三島である。ぼくにとって永いこと三島の性的嗜好が謎だったことも無理はない。




しかし、もはやそこに謎はない。三島は自分の性的嗜好をつかまえられず、迷走しながら、時期ごとに性的嗜好を変えたのだ。はやいはなしが三島は、性的嗜好においても、時期に応じて、さまざまな仮面を付け替えた。すべては文学のためだったろうか? それはぼくにはわからない。いずれにせよ、三島由紀夫、こんな男、ちょっといない。





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