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松本人志さんの魂の暗がりが『チキンライス』の歌詞でわかる。

松ちゃんが抱え込んでいる魂の暗がりについての考察です。だって、週刊文春の一連の報道はあまりに浅い。人間ってそんなたんじゅんなものじゃないでしょ、もっと複雑でしょ。ましてや、あの松ちゃんですよ。もったいない。めちゃめちゃ癖のある最高の食材に対して、しかしざんねんながら文春の調理の仕方はちょっと、ねぇ。


例のスキャンダルにつられて、ひさしぶりに週刊文春2月22日号を買ってみた。「松本人志 なぜ『笑いの天才』は『裸の王様』になったか」を読むために。松ちゃんの人生の軌跡を振り返る文春の記事、その冒頭はこんなふうだ。「空を見上げれば、白地に赤文字でキリンビールという大きな看板があった。煙突が濁った煙を吐き出し、長屋が連なる下町を労働者が行き交う。/1982年の春、JR尼ケ崎駅北側の「キリンビール尼崎工場」近くの空き地で二人の青年が漫才の練習に励んでいた。その瞳には野心が漲っている。かれらは『自分たちこそが一番おもろい』という一筋の光のような大志を胸に抱いていた。/それから40年あまり。



なるほど、昭和の尼崎を知る人には、煙突から黒煙を噴き上げるでっかいキリンビール工場とその周辺に広がるつましい下町のコントラストはツカミばっちりではあるでしょう。少し記事を補いましょう。明治以降尼崎は重化学工業で大きくなった街で、たくさんの工場があり、海岸沿いには発電所があって、高度成長期には公害の街としても知られた。飲食店も多く、パチンコ屋はもちろんのこと、卓球場、ダンスホールもある。花街で芸者遊びもできれば、カネのない男どものためには飲食店の看板を口実に掲げた物悲しい性風俗の一帯もある。(これがまた駅の商店街を抜けたところにある。)工員の男たちが稼いだカネは酒と女とギャンブルであっというまに消えてしまう。ダウンタウンのふたりもまたそんな尼崎の(いわば)長屋の側の育ちの少年たちである。



ただし、週刊文春の文体は古臭い。また記事タイトルの「笑いの天才」という言葉は本文内でもただ記号として使いまわされているだけ。(後から松ちゃんを卑しめ貶めるための振りとしては機能しても、しかし)書き手が松ちゃんの芸のどこに天才性を見ているのか、知れたものではありません。



そもそも記事の書き手が漫才やコントを楽しみうれしがり大事にしてきた人間だかどうかも怪しい。だから、芸人を語っていながら、言葉が芸に届かない。そもそも漫才の芸はネタもさることながら、風貌、表情、アクション、声音、声量のコントロール、音程の高低、テンポ、スピード感とともある。ダウンタウンにおいては、意表を突くネタ、絶妙の間をともなったとんでもないボケ、派手なツッコミ、話がどこへ転がってゆくかわからないスリリングな展開もなんとも新鮮だった。そういうことをちゃんとわかってたのしんできたかしらん、週刊文春さんは???



もっとも、文春も触れているとおりデビューそうそうのダウンタウンは当時漫才界の王様だった横山やすしさんに全否定されてもいます。記事を補いましょう。横山やすしさんは言う、「笑いには良い笑いと悪い笑いがある。おまえらの笑いは悪い笑いや。テレビで披露するもんちゃう。おまえらの漫才はチンピラの立ち話や。」しかしそんなふうに大人たちを怒らせるところもまた若者たちをおおよろこびさせ、それがダウンタウン東京進出につながっていった。その後の成功は誰もが知るとおり。


もっとも、そんな文春の記事は読者の情緒に訴え、松ちゃんをいかにも性加害をやりそうな人物として演出し、煽情的な調子で盛り上げてゆくのは巧いもの。なるほど、あのダウンタウンのふたりですから叩けば叩くほど埃もいっぱい出るでしょう。取材記者がみんなして布団叩き持って尼崎、心斎橋、六本木をうろつきまわったその記録がここにある。いたるところで埃もうもうですよ。埃のなかにはじゃがりこのかけらやひからびたどん兵衛の麺、ダニの死骸も混じっています。もっとももしも文春の側に立つならばすでに文春は松ちゃんに五億五千万円の訴訟をされているのだから、対抗上あるていど仕方のないことではあるでしょうけれど。だったら、『週刊文春編集長、(松本人志に)怒りの独白5時間』とか記事にすればいいのにね。いいえ、書き手は黒子に徹するのが週刊誌のお約束です。



次に文春記事の惜しむべきこと。それは松ちゃんが性に奔放になるのはダウンタウンが売れ始めてからのことなので、コドモ時代の話など不要という切り捨てがあること。これがもったいない。いちばん大事なところをあっさり捨ててどうするんでしょう? だって、おそらく松ちゃん問題のすべての種はコドモ時代に撒かれていたでしょう。



また、週刊文春はどんな人間も複雑であることを(意図的に)忘れたふりをしています。たとえば2022年の松ちゃんの発言、「オミクロンは正直怖いと思っていなくて、緊急事態宣言になることが怖い」、政府のコロナ予備費の11兆円が使途不明金になっていることへの怒り、はたまた、「5歳以上からワクチン打たせようなんてもう狂気の沙汰やで!」といういずれもワイドナショーでの発言など一切触れもしない。(おそらく松ちゃんはこの一連の発言で、横暴で理不尽な権力の行使に激怒しています。)こういう松ちゃんもちゃんと書いてあげないと不公平でしょ。




では、いったい松ちゃんはどういう環境に育ったでしょう。松ちゃんは上にお姉さんとおにいさんがいる末っ子。家は貧しく、ウインナーソーセージを焼いて焼肉と称して食べていたほど。しかも松ちゃんは何本食べていいか、気をつかいながら食事をします。松ちゃんのおとうさんがなんの仕事をなさっていたのかは誰もほぼ話題にしません。もっとも、一時期おとうさんが舞台作りの仕事をしていた関係で、演芸場の招待券をもらい、それがきっかけになって松ちゃんは笑いに目覚めたという話だけは有名だけれど。



松ちゃんはおかあさんのことは大好きながら、しかしおとうさんに対してはつねに一貫して複雑な苦々しい心境を述べておられます。おとうさんは松ちゃんのおにいさんを溺愛し、松ちゃんを冷遇した。それどころかあるときおとうさんは松ちゃんを乗せて自転車で遠出したことがあって、そのとき松ちゃんは自分がゼッタイ捨てられるとおもっておとうさんにしがみついたとか。おもえばダウンタウンの初期の漫才に『誘拐』があって、誘拐犯が誘拐した子の親に電話をかけてくるネタでした。もしかしたら、あのネタには松ちゃんのコドモ時代の実存の不安が(無意識に)投影されているのかもしれません。いずれにせよ、そんな気の毒な境遇が松ちゃん作詞の『チキンライス』を生んでいて。貧乏な家で父親の顔色をうかがいながら、いつもびくびくしていた内向的な男の子がそこにいます。(だからこそ、松ちゃんはあの明るいおかあさんから受けた愛情がただただありがたく、松ちゃんとおかあさんの仲の良さの源泉となっているでしょう。)



あの歌『チキンライス』は〈テレビ界の帝王、笑いの世界の神が、いま語る哀しい少年時代〉というもの、ほとんど偉人の伝記みたいです。まるで徳川家康、福沢諭吉、キュリー夫人、エジソンのような??? ただしこの歌詞は、松本人志の複雑な人格がいかに形成されたかについて考えるときとても重要です。



おそらく、松本人志さんによる性加害疑惑の背景にはこんな脈絡があるのではないかしら。父親という横暴な権力に虐待されたコドモが、いまや大人になって父親よりも比較できないほど大きな権力を持つようになって、こんどは自分が他人を虐待する側にまわる。つまりここには虐待の連鎖がある。


しかも、松ちゃんは自分が絶大な魅力と権力を持っていることをつねに実証し、確認せずにはいられない。こうして松ちゃんは自分の権力を利用して、つねに周囲の人たちを抑圧しがら仕事に、性行為に、日々自分の欲望を満足させてゆくようになる。もちろん松ちゃんにとってもまわりの人にとっても不幸なことです。しかし、松ちゃんはこのループから逃れられない。なお、この見方をぼくは(YOUTUBE一月万冊における)安冨歩さんによって教えられました。


松ちゃんにとっては不同意性交は一切なかったつもりだったでしょう。しかし被害を訴える女性がぞろぞろでてきた。だったら、松ちゃんは自分が心ならずも相手を傷つけてしまっていたことを謝ればいいじゃないの。もしも謝罪があったならば、世間もまた松ちゃんを赦しもしたでしょう。しかし、プライドの高い松ちゃんはけっして謝罪ができない。おそらくもしも謝罪してしまえば、自分が依拠している権力性が崩れてしまうことを松ちゃんは怖れているでしょう。だから、松ちゃんは激怒し、自分は事実無根だ、と文春を訴えると宣言した。これによって松ちゃんは文春を怒らせ、結果松ちゃんは火だるまになってしまった。もはや松ちゃんに裁判の勝ち目はないでしょう。せいぜい和解勧告を言い渡されるのが関の山ではないかしら。


松ちゃんはテレビのなかでは明るく軽妙だけれど、しかし収録が終われば無口で気難しいと誰もが語る。松ちゃんが長きにわたって壮絶な孤独を生きて来たことがわかる。まわりの人たちはみんな松ちゃんに腫物に触るように接してきた。「裸の王様」と呼ばれるのはそういう背景がある。

いったい誰が松ちゃんをここまで怪物化させただろう?





ぼくは週刊文春を惜しむ。村上春樹さんがオウム事件を扱った『アンダーグラウンド』『約束された場所で』(ともに講談社)と比較するのは酷かもしれないけれど、しかし天下の文藝春秋社にはせめてもう少しね。たとえ文春が松本人志を社会から抹殺したいにせよ、もっと品位と教養のある華麗な殺し方があるでしょうに。



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