見出し画像

言葉の世界から離れれば、たちまち五感の快楽が花開く。

デジタルネイティヴなんて言葉が誇らし気に使われるようになってひさしいけれど、しかし実は功罪あいなかばではあって。なぜって、ほんらいヒトは言葉に先だって五感が動くもの。すべての感動は五感のよろこびにはじまる。しかし、つねにネット環境に接続していると、言葉と映像と音楽にばかり触れるゆえ、おのずと嗅覚、味覚、触覚がマスクされがちになる。しかも、言葉を読み言葉で感じ言葉で返すことを日常にしていれば、物自体から自分の言葉を起こす経験(情報化)をする経験を持たないまま育ちがちであって。挙句の果てにはなはだしい場合には、そのヒトのすべての経験に対して五感がバイパスされてしまって、情報(言葉)を経験し言葉で味わい言葉を放つ、そんな言葉のぐるぐるまわりがはじまってしまってしまう。つまり五感の愉しみを遊び尽くすことなく、知識だけが増えてゆく。ぼくは他人事ながらおもう、せっかく生きているのにもったいない。


たとえばぼくは長年インド料理を愛しているゆえ、よく見かける光景があって。たいていみんな最初はインド料理を食べて「わ、超うめ~、サイコーじゃん!!!」っていう五感の感動経験が振り出しなのだけれど。しかし、たちまちのうちにかれや彼女はインド料理に惑溺するあまりバスマティライスの熟成期間とかビリヤニの作り方の多様性とか、ケーララ人はヒンドゥーであっても牛も喰う人が多いとか、タミル料理とスリランカ料理の相同性と相違性とか、そんな知識収集に熱中するようになって、結果最初にあったはずの五感の感動を忘れてしまう。とうぜん一般市民はおもうようになる、「インド料理おたくとインド料理を食べても楽しくもなんともねー! 知識自慢、うざッ!」そりゃそうでしょう、だって食事のときに必要な言葉は「おいしいね♡」「サイコー♪」これで充分だもの。むしろ五感経験の最中に知的な言葉は邪魔になる。


もっとも、デジタルネイティヴ世代にもミュージシャンはたくさんいるし、料理人もパティシエもパン職人もいる、デザイナーだって、ヴィジュアルアーティストだってたくさんいて。かれらはみんな五感をつかって生きていて。たとえばミュージシャンならば、「このスネアの音もっとカリカリにしようよ」とか「ギターのフランジャー感、サイコーだね」とか「全体的にエコー深すぎじゃね?」とかそういうふうに感覚の言葉で会話を交わしながら作品は作られてゆく。まさに言葉は副詞と形容詞しか出る幕はない。


料理人の会話だって同じこと。「お、塩の効かせ方が絶妙だね」とか、「肉に火がまわりすぎ、火入れはもっとグラデーションになってなくちゃ」とか、「このソースは色は綺麗だけど、肉に対して弱すぎて負けてるよ」とか交わされる言葉は感覚の言葉だけ。


しかし、(気の毒なことに)言葉人間は理解できない、言葉の世界から離れればたちまち五感の快楽が花開くことを。

image by kikicollagist

いいなと思ったら応援しよう!