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「バカになって読書する」「バカになって文章を書く」という方法。

自分がバカである現実を認めること。これだけが、知性を育てる唯一の方法である。




なまじ学歴のあるオヤジや老人たちは、なにごとにおいても「おれ、それについては知らない。わかんない」みたいなことを(意地でも)言えない人が多い。それどころかなにごとについても識者の側に立って発言しなくてはプライドが許さない人さえいる。とうぜんこういうことを続けていれば、知性はまったく育たない。そもそもそんなになんでもかんでもかんたんに識者になれるわけがない。こうしてオヤジや老人は知ったかぶりの人になってゆく。口ばっかりの粗大ゴミである。



ところが(幸か不幸か)近年はウィキペディアもあればChat GPTもあって、ちょっと使えばなんだってそれらしいことが言えるもの。しかし、これが罠なんですよ。もちろんいまは誰だってみんなああいうのを使いはするものの、ただし、あんなものはなにかを知るため考えるための叩き台にすぎない。スタート地点に立っただけのこと。けっしてゴールではない。ところがこれに気づけない人は多く、かれらは知ったかぶり発言を繰り返す。



もっとも、文章を書く上で知ったかぶりをまったくなくすことは原理的に不可能ではあって。なぜなら、知ることにはきりがありませんから、どこかで見切るほかありません。書き手にできることは、知ったかぶりを〈できるかぎり減らす〉ことだけです。



ぼくはおもう。読書ってむしろバカになっておこなう楽しみですよ。だって、世の中には難しい本があふれていて、ちょっとページを開けばわからないわからない、あぁ、もうなんにもわからないの連続ですよ。まじめに読めば1か月かかりっきりになってしまう本も多い。(逆に、2時間で読めちゃて謎がまったく残らない本なんて本とは呼べません。)また、1冊の本は、その本が前提している本がかるく30冊はあるもの。したがって、読書を習慣にする人は次から次に読んでゆくことになる。(それもちょっとどうかとぼくはおもうけれど、でも、しかし、そうならざるを得ないもの。)




また、なまじ学歴のあるオヤジたちや老人たちのなかには随筆や小説を書きたがる人も多い。ところが随筆や小説がまた、(たしかにインテリが書いたおもしろいものも多少あるとはいえ、しかし)、バカと見なされることにためらいがない人の書くものにこそかけがえがない魅力がある。武田百合子さん、あるいは深沢七郎。準じて田中小実昌。あの人たちはまったく知的なものに毒されていない。もっとも田中さんは哲学好きでもあるからいくらか微妙だけれど。生きるってああいうことだよな、とつくづくおもう。すばらしすぎる。天使ですよ。



ところがなまじ学歴のあるオヤジや老人はプライドが邪魔してこういう芸当はできない。そもそもかれらの現実はすべて観念に絡めとられていて、したがってかれらは食、ファッション、音楽、マンガに趣味がない。知的と見なされていない対象は、かれらにとって意味がなく、そもそもかれらの視野の外なのだ。それでも音楽に趣味くらいあった方がかっこいいかな、とおもうオヤジは「グレン・グ-ルドはいいね」なんて囀ったりする。(たしかにグールドはすばらしいにせよ、飾りじゃないのよ、グールドは。)はやいはなしがかれらには、「この鮭、めちゃめちゃうめえな」とか「この桃はうまいねぇ」みたいな実感が失われているのだ。実感がないもんだから、鮭や桃について検索したりする。いやはや。そんなんで随筆や小説なんて書けるわけがない。一言で言えば、自分が偉いなんて誤解しているうちは、随筆も小説も書けないものなんですよ。はやく平場に降りないと。



あ、ここまで書いてきていま気がついたことには、ぼくのこの主題は、橋本治さんの『わからないという方法』に通じていますね。わからないからおもしろい。わからないことがあるとうれしくなっちゃう。わからないから考える。考えはじめるとひとつづつ謎が解けてゆく。うれしい♡ 人生ってそんなものですよ。現実を見よ、We’re all wearing idiot shoes. わしらはみんなアホやねん。



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