諜報と他者理解。ゲイであること。隠れて生きる。そしてひとりの小説家がたどり着いた精神の解放について。
サマセット・モーム(1874-1965)は世界中さまざまな土地を舞台にした、読みやすく洒落た小説をたくさん書いた。かれはゲイ寄りのバイセクシュアルであり、医師であり、語学に秀で英語、フランス語、ドイツ語を流暢に話すことができた。
モームはフランス生まれのイギリス人として、パリのイギリス大使館つきの弁護士の息子のひとりとして生まれたものの、八歳で母が死に、十歳で父が死に、モームは孤児になった。モームはイギリスの牧師の叔父に預けられたのだが、この叔父との関係はモームを苦しめたようだ。しかもかれには吃音癖があり、その上フランス語なまりの英語が、学校でからかいの対象になった。モームはいじけた少年時代を送った。モームは早くから作家を目指しながらも、その夢を隠し、医学校に学び、医師免許を取り、しかし早々と作家デビューに成功した。作品は、(オスカー・ワイルド全盛の十九世紀末に)、研修医時代に接したプロレタリアの患者たちをつうじて見知った世界を、リアリズムで描いたもの。モームが作家になれたことをよろこんだのもつかのま、入金された印税はおもいのほか少なく、職業作家に踏み切ったのはあきらかに早計だった。しばらくは貧乏暮らしがつづく。なお、この貧乏暮らしが後にゴーギャンを題材にした『月と6ペンス』を書くきっかけになっています。
モームは第一次世界大戦(1914-1918)に赤十字として参加していたとき、イギリス秘密情報局にスカウトされた。そのときモームは四十代、その後スパイ活動はなんと第二次世界大戦中までつづき、ほぼ七十歳あたりまでスパイだった。なおモームは各国への旅に、私設秘書ジェラルド、あるいはサールを連れてゆき、モームはかれらとひそやかな時間を分かちあった。
作品を見てゆきましょう。『人間の絆』(1915年)は、モーム自身の不遇な少年時代を反映させた逆境のなかで生き延びる少年の成長譚です。『月と6ペンス』(1919年)は、画家ゴーギャンがタヒチへ渡る話をもとにしています。(なるほどタヒチは、第一次世界大戦の時期においてヨーロッパとアメリカが鵜の目鷹の目で奪い合う、地政学上重要な場所であり、しかも当時のナチスドイツの動向はイギリスにとって要注意だった)。『英国諜報員アジェンデン』(1928年)では、作者の分身の主人公がスイスで各国情報員と競い、その後シベリア鉄道経由でロシア革命を目撃。メキシコ、インド、ギリシアを舞台に、激しい工作合戦のなかでの駆引き、裏切りなどの人間ドラマを描いています。『劇場』(1937年)は、演劇界の舞台裏を描いたもので、〈演技をする人生〉を主題にしています。
1959年モームは日本にもやってきて、京都のミヤコホテルに宿泊し、日本英文学界はモームをさまざまな場所に案内したもの。平安神宮、龍安寺、金閣寺、桂離宮を見学し、奈良へドライヴし、法隆寺、春日神社、東大寺を見学。東京では帝国ホテルで三島由紀夫と対談もした。そしてモームはフランス船ヴェトバヌ号で、サイゴン(=ホーチミン)へ向かった。
余談ながら、モームもカポ-ティも三島の才能を高く買った。才能あるゲイは同様のゲイに同志的高評価をするもの。
いまでは人はモームを〈表の顔は小説家、裏の顔はスパイの、ゲイ寄りのバイセクシュアル〉と見なします。しかし、そんなたんじゅんなはなしではなく、むしろモームは根っからの小説家であり、同時に(!)プロのスパイでもある、そんなダブルワークな精神構造を内面化していた。これはいったいどういうことだろう?
モームはスパイになること、すなわち、〈公然と隠れて生きる〉ことをとおして、はじめて(それまでの逡巡を重ねた人生への迷いから解放され)、生のよろこびを味わったのではないだろうか。そう、モームは〈スパイになること〉をつうじて味わったに違いない、身を隠すことがもたらす解放感を。情報提供者を洗い出し、情報を収集し、統合し、ときに嘘を混ぜながら発信する、そんな一連の諜報活動がもたらす昏いよろこびを。そしてつねに危険とともにあることのなかではじめて得られる生の充実感を。しかもモームはゲイのパートナーとともに旅した、危険をともにする冒険小説さながらのスリル、そこから得られる死とすれそれであるがゆえの生の、性の、エクスタシーを。そしてそれらのすべてが『月と六ペンス』に、反映として、見出される。なお、007で有名なイアン・フレミングはモームの信奉者だった。
thanks to ほたかえりなさん