三島由紀夫の半身

詩は語り得ないもののまわりに、言葉を生い茂らせる。
語り得ないものとは、たとえば身近な人の死だ。
いいえ、それは死に限らない。
たとえば、愛も哀しみもまた、語り得ない。
美でさえも。
そもそも自分自身のことでさえも、
なにもわかっちゃいないのだ。
そこでやむなく詩は語り得ないもののまわりに、
言葉を繁茂させる。


これはおそらく文学の基本原理に違いない。
すなわち、文学作品とはドーナツであり、
その中心はくうなのだ。


達者な文学者ならば、聡明な読者ならば、
誰だってこのことに気づく。
さて、ここで、
もしも文学に絶望してしまえば、
三島の晩年のようなことになる。
三島は言った、
文学者としてではなく、武人として死にたい。


だが、ぼくはおもう、
立派な(あるいは「規格外の」と言うべきかもしれないけれど)
ある種の文学者とは一種の武人ではないか。
ロートレアモンが、
ボードレールが、
ランボーが武人でなかったなど、
誰が言える?



ところが、三島は詩人だった少年時代の自分を殺して、
小説家・戯曲家になった人である。
しかも批評家としても卓越していた。
三島はなんでもかんでもすっきり明解に説明してしまう。
また、それができるほどに誰よりも聡明な人だった。
さすが天下の東大法学部卒である。
(なるほど形式や構造ならば説明できる。
あらゆる事柄にはそれらが備わっている。
しかし、形式や構造を知ったところで、
人が幸福に生きるようになれるわけではない。
けっきょく大切なことで説明できることなど
なにもないのだ。)
他方、なにかといえば説明を求める世人たちは
自分たちの愚かさに気づいて欲しい。
(言ってもせんない話だが。)



ぼくはただ三島の失われた半身を慈しむ。


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