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小説家養成エリート教育をほどこされた三島由紀夫は、なぜ、観念の外へ出られなかったの?

まず最初に〈人を小説家に育てる教育なんてありえるの?〉という話から始めましょう。むかしもいまもさんざん口にされてきた疑問です。なるほど、いまでは大学にクリエイティヴライティング学科や文芸学科がある時代ながら、しかし、それでもこの本質的疑問を持つ人は少なくない。



ところが、あきらかに人を小説家に育てる教育はあって。それは山ほど小説を読ませて文体と〈型〉を学ばせ、死ぬほど実践を繰り返させること。徹底的にこれを繰り返せば、原理的には誰だって小説家になれる。もちろん詩人にだって脚本家にだってなれる。なお、この教育はなるべく早い時期であることが望ましい。もしかしたら大学ではやや遅いかもしれないけれど、しかしそれでも遅すぎるというほどでもないでしょう、精読と多読、そして実践をがむしゃらに繰り返しさえすれば。



とうぜん詩人、小説家、脚本家にも上等な作品を量産する人もいれば、他方、陳腐でありふれた作品を山ほど書いてしまう人もいる。しかし、それは絵描きだろうが料理人であろうが洋服の作り手であろうが同じこと。自分が作ったものが売れ続けるならば、その人は立派なプロである。世にクリエイティヴ・ライティング学科が存在するのは、調理師専門学校や服飾専門学校があるのと同じことである。



金子光晴は言った、「われわれ詩人は写真家がマニュアルカメラで写真を撮るように、技術を持っているから詩が書けるんだ。技術がなければなんにもできない。」(大意)。じっさい熟練した俳句の作り手もまた、どんどん俳句をひねりだす、数分で一句というふうに。なにしろ手が早い。芭蕉は生涯千句近く作った。詩人だって同じこと、現在92歳の谷川俊太郎さんの詩集は80冊以上にのぼり、しかも他に校歌、歌詞、ラジオドラマ、エッセイなども厖大にある。同様に三島由紀夫もまた全集はなんと44巻もある。



次に、三島由紀夫を小説家に育てたふたりの女について話そう。ひとりは祖母の平岡なつであり、公威くん(三島の本名)を両親から取り上げ、自分の支配下に置いて、三島に女の子の服を着させ、女友達をあてがって、なんと公威くんを小学校卒業までほぼ独占的に育てた。公威くんはなつのもとで山ほど童話を読み、詩を書き、歌舞伎を見て育つ。



ようやく祖母なつから解放された13歳の公威くんは、こんどは母・漢学者の娘である平岡 倭文重(しずえ)がかれの文学教育を担当するようになる。倭文重もまた夫、無能な官僚であり家庭内では暴君の平岡梓に愛想を尽かしていて、何度離婚しようとおもったか知れない。 そんな倭文重が息子の三島の文才を育てることによろこびを見出すことはとうぜんの心の動きでしょう。三島もまた母・倭文重が大好きだった。なお、父の平岡梓は文学なんてめめしいことは大嫌い、少年三島の書いた原稿用紙を破るなどの一件がありつつも、しかし公威くんは母・倭文重の庇護のもとすくすくと文才を伸ばしてゆく。これが公威くん17歳で刊行された『花ざかりの森』筆名・三島由紀夫に結実する。天才少年作家の誕生である。三島は17歳にして、プルースト文体を日本語で自在に扱い、その美しく流れるように流暢な美文はまるで奇跡のようだ。



しかし、そんな三島にも弱点があった。それは三島が受けた教育は、ハウス促成栽培のおいしい野菜のようなもので、風雪に耐えながらたくましく育ってきたものとはまったく違う。なにしろ三島の小説は頭のなかでこしらえた観念の美しい城の如きもので、けっして実体験から導き出されたものではない。したがって、美しいが脆い。



なるほど専業作家になってからの三島は、数々の経験をした。世界旅行をした。夜の東京を徘徊した。男女問わず恋愛もした。映画にも出演した。歌も歌った。ボディビルもやれば剣道もした。自衛隊にも体験入隊した。盾の会を作って共同訓練もした。最期は腹まで切った。しかしながら、三島の場合は、たとえどんな経験をしようとも、それを言語化し構成するにあたって、観念の対称性を用いてしまう。たとえば、祖母の部屋に監禁され童話を読むコドモは、窓の向こうをとおる汲み取り人の肉体に憧れる。アオジロと呼ばれた少年時代を語るときには、喧嘩っぱやい野性的な不良が並置される。『潮騒』の少年少女は、文化に毒されていない自然児であることがくどいほど説明される。金閣寺が世にも美しいと洗脳されて育った男は、その金閣寺のみじめな実態を目にした瞬間、こんなもの燃やしてしまえ、と黒々と不穏な情熱を沸き立たせる。




しかし、果たしてこんなふうに観念的に考える人は、どれだけいるでしょう? そもそも最高の美が金閣寺であろうがなかろうが、どうだっていいこと。ぼくならば自分のガールフレンドなり、ドン・キホーテのレジ打ちの赤毛の女の子なり、古着屋のふわふわの髪の優しい男の子だったり、あるいは夜明けの青い時間、はたまた公園の湖に鴨が泳ぎ、緑のなかを涼風が吹き抜けること。たとえば胸の上部に薔薇の刺繍をほどこした黒いシャツ・・・。美はどこにだってある。べつに金閣寺に大騒ぎする必要はない。




さらに踏み込んで言えば、金閣寺を美の基準にしてしまうのは、三島のなかに自分の美の基準が存在しないからである。美はエリートが決めるものでもなく、多数決で選ぶものでのない、美は自分の心が幻惑されただひたすら引き寄せられるもの。また、人の心は変化するもの、きょう美しいとおもったものをあしたもまた美しいとおもうかどうかはわからない。永遠不滅の普遍の美が存在するなんて信じたい人は、現実を生きていないだけのことである。



ぼくが三島由紀夫にもっとも興味を持つこと。それは、誰よりもモダンクラシックな文学を熟知し華麗に使いこなせる三島は、なぜ、観念の〈外〉に出ることができなかったろう? あんなにも三島はさまざまな経験を重ねたというのに。
















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