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隠喩としての娼婦。マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』

「十八歳でわたしは年老いた。だれでもそんなふうなのだろうか、たずねたことは一度もない。人生のもっとも若い時代、もっとも祝福された時代を生きているうちに、そのように時間の圧力におそわれることがときにあるものだ、そんな話を聞いたおぼえがある。この老化は容赦なかった。老化が顔の線をひとつまたひとつ劫掠してゆき、顔だちのなかの関係を変化させ、眼は大きくなり、まなざしは悲しみをたたえ、口もとはきっぱりと変わりようのないものとなり、額に深い亀裂が刻まれるのを、わたしはみた。顔の老化がこのようにすすんでゆくのをみながら、それにおびえるどころか、たとえばなにかの本で物語がしだいにくりひろげられてゆくのにのめりこんでゆくような気もちを、わたしはあじわった。」




この記述はまるでナルシシズムそのものであるかのように(いっけん)みえる、けれどもそのじつ、読者の読みを誘導するモティーフにすぎない。「さぁ、解けるものなら解いてごらんなさい、わたしの人生という絡みあった謎を」と囁いているかのようにみえるその文章は、ただし、著者のひとつの擬態にすぎない。にもかかわらず、いったんこの文章を読んでしまうと、読者は(ほとんど自動的に!)語り手の人生に(も?)関心をもってゆく。




しかもいっぱんにこの作品『愛人 ラマン』は自伝的作品と考えられていて、そもそもこの小説の単行本には美少女だった著者の肖像写真が(あたかもテクストの一部であるかのように、あるいは証拠物件のように)飾られてさえいて。したがって読者は、作中にあらわれる語り手の「わたし」とはすなわちマルグリット・デュラス自身のこととして、うけとる。そしてその前提をうけいれたとたんに、その優美なテクスト『愛人 ラマン』はまるで、ゴーストライターがでっちあげるアイドル歌手の自伝と、通りひとつ隔てた路上に立つ、娼婦同士という蓮っ葉な風情を「も」かもしだす。(だからこそ『愛人 ラマン』は、世界的大ベストセラーになったろうけれど)。ただし、この肝のすわったぬけぬけとした「隠喩としての娼婦」性を身につけるまでに、マルグリット・デュラスは、なんと七十年の歳月を必要とした。ただし、デュラスが擬態するこの「娼婦」、その比喩は、みかけほどたんじゅんではない。




ここで池澤夏樹個人編集『世界文学全集』1-4巻で、マルグリット・デユラスを紹介するにあたって、編纂者は『太平洋の防波堤』と『愛人 ラマン』を採りあげています。まず『愛人 ラマン』から読んでゆきましょう。物語はとつぜんはじまる、メコン河を渡し船が通ってゆく、その船に十五歳半の「わたし」が乗っている、あの映像から…。




「十八歳のときなにかが起こり、そのためいまのこの顔が生まれたのだ。あれはきっと夜おこったことだ。わたしは自分が怖かった。わたしは神が怖かった。(…)わたしは殺したかったのだ、上の兄を、かれを殺し、一度は、せめて一度は兄を支配するようになりたかった、兄が死んでゆくのを見たかった。それは、母の眼前から、母の愛の対象であるこの息子を奪い去るため、母がこの息子をあんなにつよく、あんなに下手に愛しているのを罰するため、いやとりわけ、下の兄を救い出すためだった」…この「母がこの息子をあんなに強く、あんなに下手に愛しているのを罰するため、いやとりわけ、下の兄を救い出すため」? なんて意味深長ないいまわしでしょう、そしてこれはいったいいつの時代のどんな物語なのでしょう?




時は1930年代、フランスがインドシナを統治していた時代、舞台は(いまでいう)ヴェトナム。彼女の家庭は母ひとりに、兄ふたり、そして彼女。母親はあまりに世間知らずで、夫を亡くしてからというもの人生をしくじりつづけ、貧困にあまんじている。彼女の母はもういい歳だというのに、サイゴンで「美しいフランス語」を教える学校を開こうとおもいたつ。





ところが学校のために手に入れた土地は、海辺の「塩漬けの土地」といわれるようなろくでもない土地で、(役人に賄賂をわたす慣習を知らない彼女は)まんまとだまされてしまって、なにかを建てるにも適さなければ、農業につかえもしない、「糞のような土地」だった。家族に希望はない。兄たちは親のカネを盗んでアヘンをやっています。彼女は、作家になる意思をもっているものの、母はそれをあざ笑う。母は、ろくでなしの兄たちを愛していて。いいえ、それ以前に彼女の母親はもはやあきらかにどこか狂っていて。彼女は狂気を「健康のように」生きている。




「わたし」は、すでに男たちの視線を意識しています。「美しいということがみんなの望むことならば、美しい、あるいはかわいいといってもいい、(…)わたしについて、みんながこんなふうであって欲しいとおもうなんにでも、わたしはなることができる、(…)いささかも良心に恥じることなく、わたしは魅力的であることができる、たとえ兄を処刑しようという考えにとりつかれているわたしであろうと。」いかにも彼女のなかには、母への反抗の炎があって。そして彼女はその反抗のたかまりとともに、華僑の愛人になってゆきます。(むだにまじめで、苦しみながらも貧困にあまんじ、老いのはじまりを無残にその顔にきざむ)母に、自分の若さを美貌を、そして男の愛をあやつる能力をみせつけるように、彼女は華僑の愛人になる、彼女はまだ十五歳だというのに。彼女がかようリセの校門の前に、黒塗りのリムジンが彼女を待つようになる。彼女はおさない娼婦のような姿で外へ出て行くようになる。母親は娘の素行の怪しさに気づいているけれど、でも、止めはしない、娘がおカネを求めているかぎりは。



「男はドレスを剥ぎ取り、それを投げる。白い木綿のちいさなパンティを剥ぎ取り、裸にした娘をベッドまで抱えてゆく。(…)娘は、男の服を脱がせ始める。眼を閉じて、それをやる。ゆっくりと。男は娘をたすけるしぐさをしようとする。娘は、動かないで、と男に言う。あたしにやらせて。あたしがやりたいの。娘はそれをする。男の服を脱がせる。(…)皮膚は華奢なまでにすべらかだ。身体。身体は痩せていて、力強さなどすこしも感じられない。筋肉がない、病気だったのかしら、治りかけなのかしら、ひげがなく、セックス以外には男らしいところがない、とてもよわよわしく、ちょっとした侮辱にも苦しみの声をあげるように見える。彼女は男の顔を見ない。さわる。セックスの、皮膚のすべらかさにさわる、金色を、未知の新しさを愛撫する。男はうめく、泣く、男はおぞましい愛のなかにいる。」




彼女の快楽が描かれる、「身体の上をあちこちキスされると泣けてくる。まるでそのキスで心が休まるかのようだ」そしてここでも対比として持ち出されるのは母親である、「母親は悦楽を知らなかった。」母親は、彼女が華僑の愛人になったことをひそかにみとめている。ひそかにみとめながらも、母親の心はプライドが邪魔をして、わりきれない感情があって。母親は言う、「シナの百万長者なんていうひどいクズにね、なにさ、若い銀行家気取りでダイヤの指輪なんかはめて」そう言って彼女はさめざめと、泣く。なんとも出口のない物語がここにある。主人公のフランス少女は、母親に敵愾心をもち、兄を殺したいとおもっているけれど、その殺意がどこまで本気かはわからない。彼女は、作家になることだけに救いを求めているけれど、母親はそれを子供じみた考えとあざ笑う。彼女に、心をうちあける友達はいない。植民地のなかのよるべないフランス人、そのむだに高いプライドと底なしの孤独。フランス領、ヴェトナム、「あの国には季節の違いがない、いつも同じ、ひとつの暑い、季節。ここには春はない、季節のよみがえりはない。」





やがて彼女はフランスへ旅立ち、長い長い人生の時がたち、気がつけばいまや彼女は人生の暮れ方にいる。それでも彼女は煩悶をつづけています。そう、彼女は人生をあらかた生ききってしまったあともなお、思春期の自分が植民地で過ごした季節を、自分をかたちづくっていっただろうさまざまな出来事を、彼女は飽くことなく再考して、再考して、やまない。かつての中国人の愛人からの自分の美貌への賛辞だけが、わずかに彼女をなぐさめていて。それはほとんどひとつの病ということもできるだろう。ただし、おそらくはその病から生まれた散文の、なんと典雅なことだろう。その散文は、いっけん感情の、自由なほとばしりのようにみえる。




けれども、ていねいに読んでゆくと、その、感情の、自由連想のようにみえもする記述は、その感情もまた物質のようにあつかわんとしていて、しかもその感情や心の動きは、記憶のかなたにある事物の表面をカメラでえんえん舐めてゆくような記述と、きわめてインテンシヴな拮抗関係をもっていて、やがて記述は、事物の表面を現前化する記述がそのまま、登場人物の内面を映し出してゆくような、すなわち、外面の描写がそのまま内面の描写であるような、水準に達してゆく。まさに文学の奇跡がここにある。この小説『愛人 ラマン』は、マルグリット・デュラスの1984年、すなわち七十歳のときの作品である。




つぎに1950年に出版された初期の代表作『太平洋の防波堤』を読んでゆきましょう。『愛人 ラマン』を先に読んだ読者が『太平洋の防波堤』を読むと、さいしょはすこし既視感があるでしょう。『太平洋の防波堤』では、少女はシュザンヌ、そして兄はジョセフと名づけられているなど違いもあるものの、たしかに類似点は多い。舞台も同じくフランス領インドシナ。主人公は少女で、兄がいます。母親は世間知らずで、なけなしの大金をはたいたにもかかわらず、ここでもやはり「塩漬けの土地」と呼ばれるろくでもない土地をあてがわされています。
もっとも、『太平洋の防波堤』では、だまされて塩漬けの土地をつかまされた母親が、怒りに燃え、何百人もの農夫の協力を得て、防波堤を築くことに拠って、なんとか事態を改善しようと闘うエピドードも描かれていて。しかしせっかく築きあげた防波堤にほっとしたのもつかのま、夏に高潮に襲われ、防波堤は、あっというまに崩壊してしまう。その出口のない絶望のなかで、主人公の娘は、愛人になることを決心する。ここもまた同じですね。ただし、それらの類似はむしろ主題の違いをきわだたせることにこそ貢献していて…。



たとえば『愛人 ラマン』では、主人公の少女には、兄がふたりいました。しかも「わたし」はその兄を殺してやりたいと語っていました、(ふたりの兄のどちらかはわからないけれど)。他方、こちらの『太平洋の防波堤』におけるヒロインの兄ジョセフは、野性味あふれるかっこいい人物として描かれ、シュザンヌとジョセフはおたがいになみなみならない好意と信頼で結ばれています。すなわち『太平洋の防波堤』では、一方で、「おたがいを無限に愛する兄と妹」という物語が描かれ、他方で、「母親の兄への溺愛」が描かれ、ある意味それは、三角関係の物語といえるでしょう。しかもシュザンヌが母親を見る視線には、それこそ呪詛のような色彩があって。




そう、人生にしくじり、生活力がなく、怒鳴ってばかりいる母親への、反感。そしてその母親への反感から、シュザンヌは愛人になってゆく。しかもシュザンヌが愛人になってゆく移行について、(野性味あふれる遊び人である)兄ジョセフは、共感さえ感じています、まるで自分もまた彼女の共犯者であるかのように。こうして見てゆくと、この『太平洋の防波堤』には、むしろコクトーの『恐るべき子供たち』に通じるイノセントの称揚と、のろまな大人への反抗という主題こそが、奇妙な三角関係の内側で、息づいていることがわかる。こうなるともうふたつの作品は、まったく違った主題をあつかっていることがわかります。




この2作品は、いずれも題材はヴェトナムですごした著者の少女時代であり、主人公の少女がとある男の愛人になる、という同じモティーフが用いられています。一方は1950年に出版された初期の代表作、他方は1984年に出版された後期の代表作、執筆時期に三十四年の隔たりがあって。このふたつの(いっけん類似した設定のなかで語られる異なった)作品のあいだに、デュラスは三十四年の人生を生き、三十五冊の作品を発表しています。さて、こうなるとここから先がくせものなんだ。そのふたつの作品の異なりが、いったいなにに由来するものなのか、どんな意味をもつのか、関心をもたずにはいられなくなる。




特記すべきは、この『太平洋の防波堤』では、相手の愛人が、ムシュウ・ジョーとして描かれ、植民地のやりて企業家の二代目、ぼんくらで無邪気なフランス白人男として描かれていること。え、華僑じゃなかったの!?? と、『愛人』を先に読んでしまった読者は、びっくりしてしまう。これはいったいどういうことだろう? デュラスの実人生における愛人は、フランス白人だったの? それとも華僑の紳士だったの? 読者は、にわかにうろたえてしまう。さらに驚くべきことは、先ごろ翻訳出版されたデュラスの作家デビュー前後のノート四冊をまとめた『デュラスの戦争ノート』に収録された「インドシナにおける子供時代と青年時代」と題された彼女の日記に拠ると、十五歳足らずのデュラスは、なんとレオという名のヴェトナム人青年と(!)関係し、そのレオから奪われたはじめてのくちづけキスを、彼女はなんともおぞましそうに、書いています。
ちなみにこの現地人レオはパリから帰ってきたばかりの男でフランス語を話します、ちなみに顔には天然痘のあとがあり、醜い。対するデュラスは生娘らしいこまっしゃくれたプライドをそなえているものの、彼女はヴェトナム生まれのヴェトナム育ちでフランスへ行ったことがなく、レオに対するプライドに、微妙な屈折を感じてもいる。




なお、デュラスはエッセイ集『アウトサイド』(晶文社刊)のなかで、インドシナで過ごした、裸足の少女時代を語っていて、そこでは母はフランス的な果実として林檎を食べさせようとしたけれど、彼女はマンゴーに愛着を持ち、母が肉を食べさせようとしても、むしろニョクマムで味つけられた淡水魚を好み、同様にパンよりは米を好み、メコン河の行商人の野菜スープを好んだ、いかにもヴェトナム的味覚への愛着を書いています。ただしそのヴェトナムの食の好みと、ヴェトナム人への微妙な(ただしあからさまな)嫌悪は、デュラスのなかで平然と両立していて。また、『デュラスの戦争ノート』の話に戻せば、次に驚かされるのは、少女時代のデュラスが、わけもなく、母と兄からひんぱんに殴られていること。




このような日記の記述を知るにおよんで、読者はいったいどんな感想をもてばいいでしょう? フロイトを、あるいはラカンを召還し、〈抑圧された記憶〉について考察を展開すべきでしょうか? もちろんそれも読者のできるひとつの選択ではあるでしょう、しかしここでマルグリット・デュラスの読者ならば、別のなにかに気づくこともできる。




そもそもテクストというものは、書き手の実人生としたしく肌をふれあい、愛をかわしているかにみえながら、それであってなお、テクストと実人生は無限に隔てられた別次元を生きてもいて、しかもその無限の距離のあいだで、不可視の、不透明な、相互関係がある。ただし、その関係を分節化することは永遠にできない。マルグリット・デュラスはおそらくどんな書き手よりもはっきりと、人が文章をつづることが不可避的に引き寄せてしまうフィクション、真偽の不明、決定不可能性をきわめてよく理解している。だからこそ同じテーマ、同じモティーフでありながらさまざまの作品のあいだに無限のヴァリアントを彼女はつくってゆく。そう、彼女は、同じ題材をもちいてある作品を write し、別の作品で rewrite し、さらにまた違った作品で rewrite し、その複数のテクストのあいだに生まれる差異をおのずと知らしめてゆく。こうして生まれる差異は、けっして、彼女の愛人の国籍にかぎらず、むしろ彼女の執着対象のすべてが、re-write されるたび、微妙な差異をともなって現前化される。喩えて言えば、デュラスは、ミュージシャンが同じトラックから、さまざまなリミックス・エディションをつくりあげ、音楽を自在に変化させてゆくように。




いいえ、その比喩は正確ではなく、むしろこんなふうに言うことができるでしょう。記述は微笑みを描くことができる、泣き顔を描くことも。くちづけも、頬を叩く瞬間も、優しい愛撫も、激しい性行為も、描くことができる。では、記述は、愛と悲しみを描くことはできるだろうか? もしもこの問いに、できる、と即座に答えたならば、その瞬間に、記述はメロドラマに堕してゆくでしょう。(そう、いかがわしさ、真偽の不明、決定不可能性を不問に伏した愉しみの形態、メロドラマに)。むしろ記述にとって、愛も悲しみも、ほんらい〈語りえない〉と考えること、それこそが書くことの倫理なのだ。そう、記述と精神のあいだには、まずさいしょに決定的な齟齬があって。それを前提にデュラスは、その〈語りえない事柄〉をめぐって、事物の表面をカメラでえんえん舐めてゆく記述をつづけながら、その事物の表面を現前化する記述がそのまま、登場人物の内面を映しだしてゆくような、すなわち、外面の描写がそのまま内面の描写であるような、記述のアクロバットを達成させてゆく。文学のおそるべき達成がここにある。



しかもデュラスは、作品から作品へと何度となく re-writeし、re-write し、re-write し続けることをとおして、そのたびに新たなヴァリアントを産出し、いつしか読者の視野に、語りえないもの、記述しえないものの相貌を、浮かびあがらせようとする。それはもはや、「さぁ、とけるものならといてごらんなさい、わたしの人生という絡み合った謎を」といった体の誘惑とは、無限の距離にへだたった、きわめてインテンシヴな文学的体験にほかならない。そしていつしか、人生の時間、人生の体験は、けっして作品に定着できるものではない、それにもかかわらず書く、書きつづける、というようなデュラスの認識が感じられる。さて、この認識をうけとったとき、文学はどう変わるだろう?




『愛人 ラマン』を発表した後、彼女は、(いまおもえば十二年となった)最後の季節を生きた後、1996年、その肉体を消滅させた、けっして多くはない、むしろ限定されたテーマをめぐる無限のヴァリアントとしての、かんたんにはとうてい読みきれないほどあまりにたくさんの文章を(そしてフィルムを)残して。マルグリット・デュラスを読むこと。この稀有な散文、文学の奇跡を、その世界の内側で体験すること。




■マルグリット・デュラス(Marguerite Duras 1914年-1996年)

1914年 フランス領インドシナ(現ヴェトナム)のザー・ディン Gia-Dinhに生まれる(サイゴンのそばである)。本名は、マルグリット・ドナディユー。1921年 父親、死亡。 1932年 フランスへ。大学で法学を専攻。1939年 ロベール・アンテルムと結婚。 1941年 処女作『あつかましき人々』を執筆。 1942年 初めての子供を出産後に失う。サイゴンで兄のポールが病死。 1943年 『太平洋の防波堤』の草稿を書き始める。 1950年 『太平洋の防波堤』出版。 1964年 『ロル・V・シュタインの歓喜』出版。 1966年~1980年 執筆のかたわら、映画制作を行う。 1970年 『ユダヤ人の家』出版。 1980年 デュラスに会ってから自殺しようと決意した男、ヤン・アンドレアが彼女と長時間対談し、そのまま彼女の家に住みつき、彼女の生涯最後の伴侶となる。 1984年 『愛人 ラマン』出版。 1996年 『これで、おしまい』出版。 1996年 3月3日、死亡。


なお、このほか著作は50冊近くにのぼり、小説が中心とは言え、戯曲もそれなりの数があり、作品の大半は日本語版が出版されています。他方、デュラスは映画も製作・監督しており、そちらは日本ではほぼ公開されていません。ちなみにゴダールは、映像作家としてのデュラスに共感と賛辞を捧げています。

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