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なぜたいていの妻は、結婚3年めで夫のことをバカボンのパパとおもうようになるのか?


結婚が(ざんねんながら)恋愛が少しづつ死に向かうことであることはほぼ避けがたい。コドモでもさずかれば育児という大仕事が降りかかるゆえ、さいわい恋愛どころの騒ぎではない。しかしながら、夫婦だけで暮らしていれば、たいてい結婚3年目に妻は夫を、「なんだよ、この男、バカボンのパパじゃないか」と気づき恋愛の死を実感するもの。




それでもこれを機にふたりのあいだに愛情というよりはむしろ友情が芽生えでもすれば、結婚生活は次のフェイズに入るもの。女だっておばさんになれる器量があった方が、たのしく生きることができるもの。いつまでも二十歳の自分に執着していては、おばさんになることはできず、実年齢とのギャップにさいなまれるようになります。人はそれを不幸と呼びます。



しかも、妻の側に若さへの執着が強ければ離婚へ向けての泥仕合がはじまります。しかも離婚訴訟は、それまでの両者の結婚生活のあらいざらいが評価の対象になるわけですから、たとえふたりのあいだに残り火のような愛情が残っていたとしても、しかし訴訟によってもはや愛情は跡形もなく消えてしまいます。



けっきょく男も女も、自他ともに、おじさん/おばさんを肯定できるようになれるか否かが、幸福な人生を生きられるか否かの分かれ道です。



なお、ぼくはこのエッセイを永遠の青年文学者・三島由紀夫シリーズの外伝として書きました。奥様の瑤子さんの目には、必ずやあの三島であってなお、バカボンのパパに見えていたことでしょう。



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