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三島由紀夫と7人の女。つまらない女、園子が三島を男色者にした?

結局三島は『仮面の告白』でなにを主張したかっただろう? もしも三島の言い分に従ってあの小説を読むならばこうなる。「おれ(=三島)は潜在的男色者だけれど、しかし、そんなおれも一度は女を愛そうとがんばったんだ。でも、無理だったんだよおおおおお!!!
しかし、ぼくは三島のこの主張を疑う。
むしろ三島にはまず最初に園子との失恋があって、その絶望から遡行して三島は、自分はコドモの頃から潜在的男色者だったから園子を愛そうとしたけどだめだったんだ、というストーリーをでっちあげたのではないだろうか。



なぜなら、このように理解してはじめて、『仮面の告白』に男色経験が見受けられず、他方、『禁色』において三島が堂々たる男色者になりおおせていること、さらには『禁色』が男色讃美小説であるにもかかわらず、なぜか〈女〉への復讐という主題であることの整合性がつく。




実は三島にとって、事実上自分を振った園子への憎悪は、計り知れないほど深い。そもそも『仮面の告白』が書かれたのは、園子(のモデル)がとっくに結婚した4年後なのである。いい加減に執着から解放されていい頃だろうに、けっしてそうではないことが伺える。三島はいったいいつまで過去の失恋を引きずるのか!?? 園子よりも美しく魅力的なそして想像力に富んだ女など世にごまんといるではないか!




しかし、園子に振られたことが悔しくてたまらない三島は努力して男色者になって園子を見返してやる、という謎の決意をする。そもそもラディゲもコクトーもプルーストもワイルドも男色者だった。おれが愛する作家たちはみんな男色者ではないか。おれが男色者でないことの方が奇妙である。そこで三島は男色者になるべく努力する。そして三島は堂々たる男色者になりおおせる。こうして『禁色』が書かれるのだけれど、『禁色』もまた不思議な小説である。なぜなら、老作家・檜俊輔は女たちに傷つけられた異性愛者であり、女たちからモテモテであるにもかかわらず、けっして精神的に女を愛することができないナルシシストの美青年・南悠一を使って、自分を傷つけた女どもに復讐してゆくのである。こんなへんてこりんな男色讃美小説は類例がない。われわれ読者はおもう、すべて園子が悪い! だが、三越だろうが駅前の八百屋であろうがどこにだっているどんくさい園子ごときとの失恋をいつまでも引きずって、あろうことか園子を女の象徴として代表させて生贄として復讐を決意する、そんな三島もまたちょっとどうかしている。ただし、そのちょっとどうかしているところこそが、いかにも三島らしくはある。





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