なんだこりゃ!?? エルドアン大統領が十代だった頃、トルコではサイケデリックロックが大流行していた。
へんてこりんな音楽マニアのみなさん、たいへんなごちそうですよ。かつてトルコにはこんな不思議な音楽があったんですね~。Syd Barrett 在籍中のPink Froid や、Cream、はたまたQuicksilver Messenger Serviceの同級生ですね。むろんある意味ではわが国のGSの、たとえばザ・ダイナマイツや、ザ・ゴールデンカップスや、ザ・モップスらの同級生でもあって。ちょっと聴いてみましょう。
チャーミングですね~。なぜかシタールが入って、へんてこりんなふんいきを出してますねぇ。イラストもいい味、出してますね~。もしもDJミキサーで低音部をぶっとくイコライジングして聴くと、なおさらイイでしょう。
お次は、こちら。
盛り上げますね~。派手なファズギターがいかにもあの時代ですね~。マウスワウも使っているかしらん?
お次は、Erkin Korayさん。(b.1941)
トルコのマジカル・パワー・マコですか???(たぶん、違う。)いずれにせよ、おもしろいことやってるじゃないですか。
とうぜんのことながらとっくにトルコのサイケデリックロックブームは去ってしまったものの、しかし、(日本でもDJたちがむかしの和ものを盛り上げ用に使うようにトルコでもまた)DJたちの盛り上げアイテムとして、活用されたりしているようです。
さて、この流行にはいったいどんな背景があるかしらん? これね、実はトルコの近代史と深い関係があって。現代トルコ建国の父、Atatürk大統領は興味深い人物で、第一次世界大戦の敗北を契機に、1920年代建国の最初からそうとう西欧と融和的な方向に舵を切った。国民主権の憲法を制定。イスラム教と政治を分離した。トルコ語表記をアラビア文字からアルファベットに変更した。そして音楽ファンに興味深いことは、トルコの音楽のもともともっていた精妙な音階を、いくらかたんじゅん化して、西洋音楽と融和しやすくした。そもそもトルコは古代ローマ帝国の版図ですからね。現代のトルコがヨーロッパとアラブ、ひいてはアフリカとの仲介役になっているのはそんなわけです。
【トルコの近代史についての一般的な解説。】トルコ共和国は第二次世界大戦において当初は中立を宣言し、イギリスに接近しつつ、ドイツと不可侵条約を結ぶなど、中立の維持に努めたものだけれど。しかし、1945年 初頭、 連合国 側の勝利が決定的となってから、連合国側の圧力によって トルコはしぶしぶ枢軸国 側に宣戦を布告した。 結果、トルコもまた戦勝国の一員となって、 国際連合 の加盟国となった。 第二次世界大戦後トルコは マーシャル・プラン を受け入れて親米に大きく舵を切り、 北大西洋条約機構 (NATO) に加盟し、 中央条約機構 (CENTO) を設立して、西側の ソビエト連邦 に対する最前線となった。もっともトルコの1960年代は軍事クーデター未遂、労働運動、学生運動などで不安定な時代ではあったそうな。
もっともエルドアン大統領が好きな歌は、Beraber Yürüdük Biz Bu Yollarda(われわれはこれらの道を一緒に歩いた)で、よく歌ってらっしゃいます。
「われわれはたくさんの道を一緒に歩いた。土砂降りの雨の下で、われわれは一緒に濡れた。私がいま聴いているすべての曲のなかで、なにもかもがあなたをおもいださせる」、いかにも独裁者の好む自己陶酔的な歌ですね。
これまで近代のトルコ共和国は世俗主義から距離を置き西側贔屓の国だったけれど、しかしエルドアン大統領以降、むしろムスリム国家としてのアイデンティティを強め、いまやロシア~中国を支持してけっして西側に屈しない国になりました。したがってトルコのサイケデリックロックもまた遠い過去の話になりましたとさ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?